Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

言葉とストーリー

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僕らはまっさらなスペースの中にブロックを積み上げ、
そして積み上げられたブロックを共有したり共感したりしながら
世界を構築しているんです。

このブロックの欠片は、思いや言葉で構成されておりまして、
それを積み上げることにより世界が構築されるってイメージなんですよね。

そして、僕らはその世界の中を生きていると思っているわけです。

言葉は、一つのワードで完結されることはありませんよね。
ワードが組み合わさってセンテンスとなり、そのセンテンスが次のセンテンスを生み出すわけです。

そうやってどんどん積み上がっては再構成し、再構成しては積み上がっていきます。

これがストーリーとなるわけです。

まさに、作り上げられたストーリーを生きている。
というわけなんですが、

厳密にいうと、そのストーリー(世界)を生きていると、
「思っている」というわけです。

そして、「気づき」とは、「思っている」ということに気づくということなんです。
「そっかー。単に思っていたんだー。」
と知るんですね。

すると、現実と思考が全く同じものなんだということも、
また明らかになるんですよね。

これは、思考を使って現実を引き寄せるというものとは全く違って、
そこにタイムラグはなく、現実を別の言葉で表現をすればそれは思考だということになるよねーってことなんですけどねー。

 

ほら、よく言葉っていうのは言霊(ことだま)となり、その言霊は現実を作り上げるパワーがあるから、言葉にはよく気をつけなさいよー。
みたいなね。
そんな教えがあったりするじゃないですか。

これは、ホントその通りで、良い教えだと思うんですけどね。

言葉とは思いそのものですのでね。
それがまさにフィルターとなって、目の前の世界をそのフィルター越しに見ているということなんですけどね。

もっと厳密に観察していきますと、
思考や言葉のフィルターが、ストーリーそのものなんですよね。

僕らが、現実だとか世界だと思っているものもストーリーなんです。

ストーリーなんて聞いちゃうと、しょせん作り話だということでしょー。
じゃあ、本当の現実はどこにあるのよ?
みたいな話になったりするわけですが、
掴み取れるような本当の現実っていうのは無いんですよねー。
これがあると思っちゃうから、真理の探究が始まっちゃったりするわけなんですが、
本当の現実っていうのはありませんので、真理の探究のゴールは何かを見つけるというものではなく、
「あらへんのかーい!」
ということを知ることがゴールだったりするわけです。

じゃあ、何にもないのか?
虚無的なものが真実なのか?
というとそういうことでも全然なくてですね。

もう全てがぜーんぶココにあるんです。
ぜーんぶがあるんですが、自分も含めての全部ですので、捉えようがないですし、捉える必要性すら無いんですよねん。

そして、全てがあって、
全てですからそこに分離もないわけです。
そうなるともう「ある」とか「ない」という概念も意味を失うんですよね。

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