Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「そのまんま」の真理

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みすぼらしく見える自分の庭も、隣の青い芝もどこにあるのか?
と言いますと、自分の中にあるんですよね。

過去の栄光も、未来の希望だって自分の中にあり、
自分と誰かのストーリーだって、自分の中にあるんです。

過去も未来もイメージの中にだけあり、
みすぼらしい庭も隣の青い芝もイメージの中にあるわけです。

このイメージを取り去った時に残るのが、
イメージを通さずにみたそのまんまの今なんですね。

僕らは今を捕まえることはできません。
捕まえた瞬間それは過去になっちゃいますからね。

ただ、何も捕まえる必要なんてないわけなんです。
なーんにも捕まえようとせずにここでリラックスしたなら、それが今なんです。

今は「そのまんま」であり、「あるがまま」のことです。

実は何を捕まえていようとも、その「今」は離れたことはありません。
どこまで行っても、
あるのは「そのまんま」の「あるがまま」しかないわけです。

 

そしてね。
このあるがままや今ここに
何かしらのあこがれや、キラキラ感を感じるのだとしたら、
そのあこがれやキラキラ感もまたイメージというわけなんです。

僕らはイメージを抱くとそのイメージのものを掴みとろうとしちゃいますからねー。

なので、イメージの中の探求が終わらなかったりするわけなんです。

「手放しましょう」という表現は
このイメージのつかみ取りに気づきましょうねー。
ということなんです。
実際に何かから手を放すことじゃありません。

掴み取るって言ってますけど、実際に何かを掴み取ってるわけじゃないですからね。
手を見てみたら、何も掴んどらんがな。
ってことですので。

実際は掴み取っているものなんてないわけなんですよね。
なので、実体のないイメージだと言われてたりするわけなんです。

表現される言葉を追っかけると、とってもややこしく聞こえちゃいますけど、
ホントシンプルなことを指し示しているだけなんですねー。

なので、掴み取るのをやめようとする必要すらないんです。
だって、何も掴んでないんですからね。
真実とか真理。というのは、
どこかにあるわけじゃないんです。

「あ、ホンマや。なんも手の中にないわ!」
という気づき。
それが真実なんです。

掴んどらんがな。
掴んでるていでいただけやったんやん。
っていうことだったんです。

そのことを僕は「おままごと」のようなものだよねー。
って表現してるわけなんですけどね。

別に人生はおままごとのような子供の遊びなんだぜーって言ってるわけでもなけりゃ、
高尚な真理のことを言ってるわけでもありません。

真理は高尚な何かじゃなく、ずっとここにある「それ」なんだよー。
っていうことなんです。

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