Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

退屈さと寂しさ

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僕らって寂しさに対して結構な恐怖を抱いていたりするんですよね。
寂しさに対する恐怖っていうのは、過剰な心配だったりするんですよね。
あらゆる恐怖は単なる信号のようなものですので、信号に過剰に縛られる必要なありません。

寂しさ自体には実はなんの問題もなくて、その恐怖を過剰に怖がるから、その恐怖に従っちゃう。ここに問題があったりするんですよね。
その問題というのは、恐怖が怖い。っていう問題なんですけどね。
「怖がるから怖い。」
っていうね。

じゃあどうすればいいねんってなるんですけど、

これはもう、一回寂しさを迎え入れてみて
そこに害がないことを確かめてみなきゃ始まらなかったりするかもしれません。

孤独な人生を我慢するってこととは違いますよー。

寂しいと思ってる感情自体は別に殴りかかってこないですし、
その思いを元に作り上げたストーリーは、単なるストーリーに過ぎないということを確かめてみれば、それは怖いものじゃ無いことが明らかになってくれるんです。

 

寂しさは取り去らなきゃならないものだという思いが続いていますとね。
やっぱり寂しさを何かで埋めなきゃならないことになるんですよねー。

そうすると、常に何かで埋めなきゃならないですし、
埋めたものがどこかにいかないように気を配らなきゃならなくなるんです。

そうなりますとね。
寂しさを埋めている何かに依存しなきゃならなくなるんですよね。

そうなると、依存先の奴隷のようにもなっちゃうんです。

寂しさを埋めるという思いは、
ちょっとした退屈だって、埋めておかなきゃいけなくなるわけでして、
退屈を紛らわすものを常に持っておかなきゃならなくなるんですよねん。

これもまた、依存を生み出したりするわけです。

でも、リラックスっていうのは、退屈さの中にあるわけです。

退屈さを埋めるものへの探求と依存を繰り返しておりますと、
どうにもリラックスできなくなり、
どこかで
「あれ?ワシ全然自由がないやん!」
ってことにもなってきたりするんですよねん。

寂しさの奥にある恐怖はね。
ホントは怖いものでも悪いものでも無いですし、
寂しい自分っていうのが、何かが足りない自分というわけでも無いですし、問題があるわけでも無いんです。

自分というものを寂しさの檻に閉じ込めなくてもいいんです。

檻に閉じ込めないでいると、あなたは全てとつながっていることが見てとれます。

そして、退屈があったなら、その退屈さの中でリラックスしてみたらいいんです。

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