Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

出来ることって見ることくらいですねん。

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出来ることって、もう見ることくらいしかありませんのでね。
見てあげるくらいしかできないんですが、
それが極まってくると、
見るでも無く全てを単に見てるという事が様になってきます。
見ようとすることすら単に見てあげられますので、もう見るまでもなく見れるんです。

これだけでもうかなり楽になるんですよね。

いわゆる鑑賞者の意識って感覚です。

もちろんこの鑑賞者の意識が目覚めなのか?と言いますと、それは全然関係ないですし、
この意識が「それ」だと言うわけでも無いんですけどねー。
ただ、そういった誤解は結構はびこってるっぽいですね。

ちなみに非二元って言葉で表現することは完全には無理なんですね。
それは言葉自体が何かを限定するっていう機能を持ってるからです。
限定されるからには、「これ」と「これ以外」に分けられちゃいますからね。
分離しちゃうわけです。
分離のなさが非二元だということですので、表現のしようがないんですねー。

 

で、言葉で表現されたことの中だけに意識を埋没させることが分離の中に取り込まれているってことなんですよね。

まあそれでも、こう行ったことを表現する方法は他にはないので、仕方がないので言葉で表現することになるわけです。
この言葉で表現できる部分の限界が、この完全な観察者の位置までになるんですよねー。
なので、もしこの鑑賞者っていう意識に目覚めちゃうと、
いろんな聖者と呼ばれてる人や先生方が言ってた言葉って、これのことかーって、ある種納得できちゃったりもするんですねー。

でも、ホントはブッダやマハリシや、その他どんなに偉い人の言葉の中にも真実はないんです。

僕もねー。
観察者の感覚が極まってたときは、うんうん。そういう事だよねー。
わかるわかるー。ってなってたんですけどねー。

でも実は、わかったわかったー!ってなってる時点で、まだ自分という分離がうっすらと残ってるってことになっちゃいますのでね。
やっぱりそれは分離なんです。

なので、もしわかった!ってなったとしたら、それもまた放ったらかしてやったら良いんですよねー。
わかった!とかゆーとるわ。ってそんな様も単に見てあげるんです。

「道元」っていう映画のワンシーンでね。
なんか道元さんが修行中に、クルクルクル〜って宙に浮くようなイメージの後、
師匠が「至ったな。ではそれを忘れてしまいなさい」
みたいなことを言うシーンがあったりするんですけど、
なんでクルクルクル〜って浮いとるねん!っていうツッコミは置いておいて、
忘れてしまう。のは良いと思うんです。

見性とか一瞥とかワンネスとかもね。
それを体験にしちゃった時点でそれはひとつの観念になっちゃいますのでね。

放ったらかしたったら良いんですよねー。

もちろん非二元の話も放ったらかしたったらええんです。

でね。
放っておくことが出来ちゃうとね。

え、これって、ほっておいても良いんや!ってことを知れるんです。
ま、当然といえば当然なんですけどね。
ほっておいてるんですし。

でも、ほっておいて良いんやん!が見抜かれちゃいますと、
ほっておいても良いのに、判断の中に入り込んでたんだー!
なぜかそうしなきゃいけないって思ってて、、、。

で、その判断の精度を求めたりしてたんだー!
ほっておいても良いのに、、、。

ってねー。
判断の仕組みがばれちゃうんです。

わかったりわからなかったりにこだわらなくて良いことが許されちゃうんですよね。
別に誰かに許されるわけでもなく、最初っから許されてたんですけどねー。

ま、なので、まずは気楽に見てみたらいいと思うんです。
ただ、見よう見よう!って見ることが気になりすぎちゃったなら、
気になりすぎてる様子の方を淡々とみてあげたらいいんですよねん。

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