Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私を愛でてあげるということについて

f:id:takuteto:20180426222400j:plain

そうそう。
よく
自分を可愛がってあげてねー。
とか、
愛でてあげてねー。
ってね。

ここでもよく書いてたりするんですけど、
これってね。
自我ちゃんの主張を肯定するということとはちょっと違うんですよねー。

 

たとえばね。
人はこういう主張をするけど、
私はこう思わない。私はもっとこうだと思うんだ!
とか、
いわゆる常識ではこうだと言われているけど、
私はそうじゃ無くてこう思うんだ!

みたいな感じでね。
自分の中で、自分と自分以外の何かとの衝突が起こってるとするじゃないですか。

そんなときに、
ついつい自分を責めちゃうような場合にはね。
ひとまず自分を可愛がってあげてねー。
ってことなんですけどね。

それは、人の主張とちがう私をダメだと思わないでね。
ということではあるんですけど、
私はこうだと思ってるその思いを肯定してあげるということともちょっと違いまして、
どちらかの意見が正しいということでもなく、
これらの意見は割とどうでもいいので、ぶっちゃけどっちでもいいんですよね。

まあどっちでも良いから別に肯定することにも良いも悪いもないんですけど、
だからといって、次は自分じゃ無くて、「自分」の中にある「他人」を責めるんであれば、やっぱりそれも、自分の中の「他人」を責めとることになりますので、
なんていうか、自分を責めてるのと同じようなことになっちゃったりするんですよね。

自分の中で起こる、自分と他人の主張のぶつかり合い。
これって、
右手のパペット(腕人形)と左手のパペットの言い合いのようなもので、
この光景もまた、自分の中に投影された物語のようなものであって、
本来はここに対立もなけりゃ私と別の人との対立すら実は無かったりするんですよねん。
そしてこの物語に作者もいなければ、行為者もまた、いてないわけなんです。

だから、
私の主張はこれでいいんだもーん♪っていうのは、それでいいんですけど、
そんな自分の主張についてのこだわりの中に入り込むというのではなく、
なんていうか、そういった言葉のストーリーの条件に縛られちゃうとまた、どこかで抵抗が生じてきちゃったりしますのでね。
そういうのも置いておいてあげてね、
そこに残る無条件の「自分」をね。
愛でてあげたら良いんです。

もしそれができたとしたら、
なんていうか、自我ちゃんというものは最初っからそこには居なかった!
っていうことが明らかになっちゃったりするんです。

あ、条件を見出した時に分離がイメージの中で起きてるんだーってね。
バレちゃうんですよね。

そうかー。
愛でてあげられない間だけ。
その条件が許せていなくて、抵抗が起こり、
抵抗している間だけ、
分離のストーリーがリアリティという重みを持って、そこで展開しているように見えているのかー!
って感じなんです。

じゃあ、愛でてあげたらこのストーリーは消滅するのか?というとそういうことでもなく、
単に起こることとして、変わらず起こるんですけどね。

色と空が同時に在ることが明らかになるだけで、何も変わらないんですよね。

言葉で表現しようとするとややこしいですけどねー。
そんな言葉もまた、一切合切ポイッて放ってあげたら、あら不思議!

「それ」として全てが残るんです。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします。
質問などがありましたら、facebookのメッセージからどうぞです〜。