Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を高らかに謳歌する!

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自分を高らかに謳歌し、表現してあげるには、
自分らしさから自分を解放してあげなきゃねー。

ってね。
思うわけです。

んん???
自分を表現するのに自分らしさから解放するのん???
ってちょっとよくわかんない。。。

ってなるかもしれません。

自分らしさを表現することが自分を謳歌することやないのん?
ってね。
思いますもんねぇ。

なので、自分らしさとはどういうものなのか?
なにが自分に合っているのか?
って探しとるわけですし。。。

ってねー。

 

ま、でも、
ぶっちゃけ、自分らしさなんてのは探すまでもなかったりするんですよね。
もう、すでに自分らしいわけですから。
ただ、何かを掴み取ろうとしようとしちゃうと、
結局のその掴み取られた世界に限定されちゃいますのでね。
すると途端に自分らしさを見失っちゃったりするんですよね。

また、自分が築き上げてきた自分という観念もね。
世界を限定しちゃうものだったりする場合はね。
やっぱり、本来の自分らしさを見失っちゃったりするんです。

本来の自分らしさって掴み取られた、
限定されたオリには収まらないんです。
なので、本来の自分らしさって掴み取ることができないですし、
その必要性すらないんですよね。

それは自然な自由さです。
自然には境界線はありません。
そんな境界線のない自由さを謳歌すれば良いんです。

これは、
「絶対に限定されないぞ!」
といったような思いにも縛られないということです。

なので無理やり自由に振舞うってことでもないんですよねー。

結構自由であることへのこだわりが強すぎて、
そのこだわりにがんじがらめになっちゃってるパターンもあったりするんですよね。

なんていうか、こうだ!っていう決め事さえも置いておいてあげてね。
湧き出てくる思考も置いておいてあげて。

どんな指針も置いておいてみるんです。

そこに自然に漂うリラックスに委ねてみたらねー

ちょっと変な話なんですが、委ねる何かなんて無かったんやーんってことに気がつくんですよね。

ぎゅっと握っていると思っていた思いって、
まあ確かめてみますと形もなく、実体もなく、
何度も繰り返しその思いを物語として構成し続けている間だけ、あるように見えてただけやん!
ってことが、改めて明らかになるんです。

「そんなの当たり前だったはずなのに、何故そのことを忘れていたんだろう???」
「不っ思議〜。」
って感覚に近いかもしれません。

思考に何かを縛る強制力も無かったっていうことが明らかになることで、
思考や心に対するご機嫌取りは絶対に不可欠なことでは無かったことが明らかになるんです。

つまり、今まで通りいろんな思考は湧いてきますし、湧いてきてイイ!
ウェルカム!なんです。
嫌な思いが起こってきても良いんです。
良いっていうか、良し悪しさえないって感じなんですよね。

思考には何かを縛るパワーはないんですが、それがウェルカムじゃない!と思っている間だけ、湧き出る思考やら心をコントロールしようとしちゃうんです。

そして、コントロールできない状態の時だけ、
慌てたり、苦を感じたりするんです。
でね。
そのコントロールできないという感覚が、
「制御できない力があるんだ!」
っていう誤解を生んだりするわけなんです。

そもそもコントロールしなきゃならないものでも無かったんですよねん。

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