Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

差し出しても、何も減らない。

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自分を差し出す。
流れに身を任せちゃう。
お任せする。

帰依。

この帰依ってねー
そうするのって、もしかしたらちょっと怖いなぁ。。。

ってねー。
思っちゃいますよね。

そうするからにはよく見極めてからにしなければ!
ってね。
感じるかもしれません。

もちろんね。
他の誰かに自分を明け渡すなんてことはしないほうがいいと思います。
そんなん新興宗教みたくなりますもんね。

帰依をするなら、それは自分に対してなんです。

自分というのは自分の命のことです。そこへ帰依するんです。
他の誰かや他の教えじゃありません。

そうそう。
そういえば帰依というのは帰命ともいうって聞いたことがあります。

あなたがあなたである以前からあるこの命。

この命に、全てを捧げるっていうことなんですねー。

命に全てを捧げる。っていうのは、言い方を変えると、
元に戻してあげるとも言えるかもしれません。

もともと、この命から現れているありとあらゆるものを

命に返してあげるということです。
返すも何も、元々は命ですのでね。

何かをつかんでいるのだとしたらそれを元に戻してあげるっていう事ですね~。

つかんでいたものの思考のフィルターを一旦返してあげて、
この命の表現を何かで制限しないでいてあげるんです。

それが帰依ということなのかもしれないなぁー。

って思うんです。

 

そうやって、大元の命に、
掴んでいたあらゆるものを差し出したとしてもね。

何かが無くなるのか?
というところを観察して見てもいいかもしれません。

いろんな思い、あらゆる個別化という観念。

これらを差し出してみた時、
なんにも減ってないということに気がつくかもしれません。

あれれー?
差し出したのに全部残ってるやん。

って感じです。

皮肉なことに、大元に全てを差し出すと、
その大元の命が残るわけです。

一見、当たり前のようにも見えますが、
実際、あたりまえでして、
そしてそれが全てであったことが思い出されるんです。

個別化を手放せば全てが残るんですよねー。
よく言われている「差し出す」というのは、

全てである自身(イノチそのもの)への気づきの促しなんです。

なので、お金の執着を手放すために喜捨を強制するというものでもなく、
自分を誰かに明け渡すことでもないんです。

先生や聖者や何かしらの教えに全てを依存しようとするんじゃなく、
元からある自身の命に向かって、あらゆる判断、あらゆる観念を捧げてあげたらいいんです。

すると、今まで自分が命を管理運営してたような気になっていたことが大きな誤解だったことに気づくかもしれません。

 ああ、自分が何かしらの判断で守ろうとする以前に、命は湧き上がりすでに表現されてたんだねぇ~。

ってね。その力強さを改めて感じられるんです。

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