Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あらゆる鎖から解かれる時

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理由とか原因と結果とかあらゆる判断。
そんなあらゆる鎖が解かれて自由になるとどうなるのか?

そこが気になる方は多いかもしれません。

僕らは常に人生において判断をしていますよね。
こういうことはあるべきではない。とか
わーい楽しい!とか、くぅーしんどい!とか。
はたまた、
これは到底許せんことだ!ということから、
うん。それなら許しちゃうウフフのフン♪

っていったことまでねー。

全ては許されてる。
とか、
すでに完璧なんデスゥ〜。
とか、
そんなこと聞いても、許せんことも起こるし、
そうなった時点でもう完璧だとは思えないし。

いくらこれが判断だと言われても、その判断は尽きることがないし。

はたまた、完璧なんだとしたら、もう何かをやる理由もなくなっちゃうじゃん。
なんてねー思ったりしてね。

 

じゃあ、自由になったならどうなるか?と言いますと、
なーんにも変わらず、
その自由の中で、やりたいことをやったり、
かーっ!めんどくさいでー!って愚痴りながら、
めんどくさいことをやったり、
もっとこうした方が良いよねーってことをやったり、
こうしたい!って思ったことをやっていくことになるんです。

へ?変わらんやん!なんにも。
判断だって起こってますやん!ってことなんですけど、
ただ、そんなのに行動が縛られる理由がないことは完全に理解されながら、
自由に起こることが起こるわけなんです。

判断や理由を拠り所にしなくても良いことが明らかになりますのでね。
これらを拠り所にしなくて良いとなると、ちゃーんと道具として使うことができるんです。
今までも道具として使ってたことには変わりは無いんですけど、
それほど深刻にならなくても良いって感じなんですよね。

判断や、こうあるべきなのでは?って思いは普通に起こるんですけど、
今まではその思いの声が絶対的な主君だったのが、
なんていうか朝の番組の占いコーナーレベルになるって感じでしょうか?

つまりは、「〜べき」に対しての深刻さがなくなるって感じなんですけどね。
でも、今まで通り、
緊張もすれば、
ひゃー!嫌いやわぁ〜ってこともおこるんですよね。

もしね、
全てがすでに完璧なんだとすると、
することがなくなりますやん!
何をしてもそこに意味はないのだったら何もやらなくて良いってことになりますやん!
って思いがあるのだとすればね。

どこかで、理由や意味という観念に縛られちゃってるってことになるんですよねー。
理由や意味という観念に縛られすぎ〜。ってことです。
なんで、何かをやるのに理由や意味が必要なん?
いらんねんで。そういうのは。
ってことなんですよね。

その縛りが強くなってくると、不自由感を感じたりするわけです。
そしてその縛りに対してへんに反抗するのもまた、縛られてるってことになるんですよねん。

なので、もちろん、いろんな経験からくる判断は起こりますし、
好きも嫌いも楽しく起こってくるんです。

かーっ!ダルいなー!!ってこともちゃんと楽しく起こってくれます。
なーんにもしないっていうのも起こるかもしれません。

それが起こるなら、それが起こってるだけってことなんです。

困ったなら、対処しようと色々と算段しますし、遅刻しそうなら急ぎますし、

別段わざと困ってるのに安心なフリをするようになるわけでも、
常に微笑んでいるような人を演じるようになるわけでも無いんですよねん。

妙な聖者イメージがはびこってたりしますが、あれは単なる流行りですのでね。
そういうフリが流行った時代があったというだけですのでね。

ダボダボのジーパンを履くのが流行ったことがあったのと同じことです。
僕だって、学生時代はダボダボのジーパン履いてましたもん。

中にはそういう風なことが起こることもあるかもしれませんが、
そこに価値があるわけではなく、そう起こっとるだけでっせってことなんですよねん。

そういう特別さが無いということが明らかになりますので、
特別さに対しての依存がなくなるんです。

なので、どこに向かわなくても良い中で、
普通に好き嫌いは起こってきますし、
好きを表現することもあれば、嫌いなことも楽しく起こってくるわけです。

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