Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

重たい荷物。

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人生は重き荷を背負いて遠き道を往くが如し。。。。
これは家康さんの遺訓なんですけどね。

うん。
下ろせばええやん!重かったら!!!

って話なんですけど。

でもね。
やっぱり家康さんほどのお方でも、
自身が背負う荷物に押しつぶされそうになりながらも
一歩一歩、歩んではったんやねぇ〜。

そもそも人生っていうのは不自由なものなんだっていうのがね。
普通やねん。
それが当たり前やねんって思えば、
不自由さにいちいち苦しまなくてもええんやないかな。

っていう趣旨がね。
人生は重たい荷物と背負って歩くようなもんですよー。
っていう言葉に込められていて、
まあこれは家康さんのある種の優しさも込められてるのかもしれませんね。

あんただけやないで。
わしもやで。
みんな荷物を背負ってるんやで。

ってねー。

 

僕らがいつのまにか背負ってしまった重たい荷物。
この荷物の中身は、物語。ストーリーです。

そして、そのストーリーを背負いながら、そのストーリーを自分の望みに沿うように道を歩むんですが、望みに沿うこともあれば、沿わないこともあり、
その都度、ストーリーは積み重ねられ、
重みに耐えかねて押しつぶされそうになったりするんですよね。

そういう時って、
自分だけが、この運命(ストーリー)の重みに押しつぶされそうになっているように感じられたりするんです。

だったらね。
その荷物をおろせば良いんですけどね。
なぜかそう出来ないというのは、
いつしかその荷物は絶対に離してはならないもの。
という思いに縛られてるからなんですよね。

それこそが自分の根幹であり、
自分そのものであり、
それをおろすことは、自分の終わりなんだ。
自分の死なんだ。

みたいなねー。
そういう思いに縛られちゃったりしてね。

自分が自分をおろすなんてとんでもない!!
なーんてことになったりするんですよね。

下手したら、
その自分が持ってるストーリーを守るためには、
死も厭わない!!

なんて思っちゃったりして。

自分を守るっていうのが高じてきちゃうと、
死んでも守ろうとしちゃうんですよね。

死なないために死ぬ!!
って、、、。
おかしいやん!

って話なんですけど。

じゃあ、どうやっておろすのよ。
ってことなんですけど。

そうやって背負いこんでいる荷物。
その中には、自分らしさという思いも含まれてるかもしれません。

そういった荷物の中のストーリーによって、
今の目の前のそのまんまが受け入れられないのだとしたら、
もしかしたら、そのストーリーの方が偽りの自分であって、

その偽りの自分を演じるあらゆる設定がその荷物の中のストーリーなんじゃなかろうか?
っていう可能性にね。
ちょこっと目を向けて見たらいいと思うんです。

今、苦しみがあるのだとしたら、
もしかしたらそれは、否定しなくてもいい自身をどこかで否定しているからなのかもしれないんです。

作り上げた自分像が、自分自身を否定し苦しめてるんだとしたら、
とんだ独り相撲ですよね。

何かであるべきなのに、できない自分を責めていたり、
こういう時はこうあるべきだと、自身よりも「〜べき」が優先されていると、

その分、自身は追いやられちゃいますのでね。

だからまずは、そのまんま、起こってること。
その全ての受容。

あらゆることの奥にある自身の光をおもてに出してあげること。
そちらを優先させてあげたらいいと思うんです。

するといつしか、今への抵抗が、その荷物の中にあるストーリーから発するものだったことに気づいてきます。
そして、そのストーリーは、ほっておいても別段問題があるわけじゃなく、
そして、重みだと思っていた抵抗感になんらパワーがあるわけでもなかったことも明らかになってきてくれるんです。

それが明らかになった時、背負ってる荷物の重みは最初からなかったことに気づくんです。

背負ってる荷物のストーリーを癒したり、方向転換させたり、
自分という観念を解放してあげたりして、荷を軽くする必要すらなかったことにも気づきます。
だって重みがないんですからね。

おろすことすら必要なかったと気づいたとき、その荷物は荷物では無くなるんです。

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