Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それって単なる虚無主義じゃん!02

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

今日は昨日の記事のつづきです。

takuteto.hatenablog.com

よかったら、昨日の記事と合わせて読んで頂ければとおもいまーっす。

私がいなくなったら、
体が消えるの?
心がなくなるの?
思考が消え失せてアホみたいになるの?

欲もなく執着もなく生きていくなんて。。。
それって単に虚無的に生きてるだけってことじゃん!!!

っていう昨日の記事の冒頭の問いとともに、もうちょっと掘り下げてみたいと思います。

 

まずは、

私がいなくなったら、
体が消えるの?
心がなくなるの?
思考が消え失せてアホみたいになるの?

っていう問いについてなんですけどね。
実はこの質問って、ベースになっている考え方がひとつありましてね。
そのベースの考え方自体がある種の誤解を生み出しているわけなんです。

そのベースとなっている考え方というのが、
私とは、体であり、
私とは、心であり、
私とは、思考である。

という考え方なんですよね。

そのベースの考え(概念)があるから、
私がいなくなったら、体が消えるのか??
なんて疑問が生じておるっちゅうわけなんです。

このベースの考え方がもう誤解なんですよねー。
実は僕らって、体が私だと考えていると同時に、
私が体をコントロールしているとも思ってたりするんです。

これは、心や思考に対しても同様です。
また、自分のイメージの中にある物語も同様で、
その物語は私であり、同時に私がコントロールするものでもある。
なーんて思っちゃったりしてるんですよね。

そこが、ちゃいますやん!
っていう話なんですよね。

私であり、同時にコントロールするものでもあるっていうのは、
もうすでに矛盾しておりますのでね。

この矛盾を抱えたまま、何かを解き明かそうとすると、
結局、最初の矛盾が影響してきて、あらたな矛盾に突き当たるんですよね。

ボタンを掛け違えたまま、先に進んだら、結局どこかで、ボタンの掛け違いの不都合に遭遇するといった感じです。
ボタンの掛け違いを直すには、最初に戻らなきゃどうにもならないんです。
それを途中で直すことは不可能ですからねー。
なので、私が消えるとどうなるのか?という問いを進めるよりは、まずはその問いの元にはどういう観念を採用しとるんやろう?
ということを見てみるといいと思うんです。

観念は観念ですのでね。
その観念をベースにした疑問は尽きないんですよねん。

これは、「私」という觀念も一緒でして、その「私」をいう観念を持ったまま、「私がいない」を理解しようとしちゃうのって、矛盾しちゃうんですよね。

というわけで、

私がいようがいまいが、
体も心もこれまで通り、起こることは起こるわけです。
そして、心臓のリズムも、胃の消化も、腸での吸収も、
臓器の働き方から、髪の毛の伸び方まで、
誰かがそれを行為したことなんてなかったんですよね。
そこに行為者の「私」が居たことなんてないんです。

心だって同様です。
明日は暇だから、午前中はハッピー気分を味わって、午後からアゲアゲに変更して、
あ、最近そう言えば絶望を入れてなかったから、夕方あたりに絶望を1時間くらい入れておくか!
なーんて、誰かがコントロールしたことは無いんですよね。
そもそも、ワタシがいるようになったり消えたりはしません。
そういう思考が起こったり消えたりしとるだけなんです。

そういう思考が起こるベースに、「私は〇〇である」という観念があるというわけなんですね。

さて、
続く問いについてですが、

「執着がなくなったら、一切の欲が無くなり、霞(かすみ)を食って生きていくみたいな事になるのかなぁ??」
「無欲な自分になってしまうのかなぁ?」

って事なんですが、これも同様に欲だって変わらず起こるわけです。
執着がなくなるのと欲がなくなるのは、厳密には別の話なんですよねー。
執着と欲って別もんなんです。
連動することもあるにはあるんですけどね。

欲は自然な生命活動ですので、それがなくなるわけはありませんし、
一切の事は、起こっては消えていくわけです。

執着っていうのは、レンズのフォーカスのようなものですのでね。
どこか一部にフォーカスすることによって、なんかこだわっちゃう。
みたいなものです。

フォーカスしようが、しまいが、起こることは起こって消えていくわけですが、
フォーカスがあると、イメージの中だけで、フォーカスされた現象について物語が付け足されて、その物語がループするわけですね。
そのループが車輪の回転に例えられて輪廻と呼ばれたりするわけです。

輪廻という話には生まれ変わりといった物語もあったりしますが、生きる死ぬというのも生まれ変わりというのも、前世来世というのも物語の中だけに存在する概念ですので、
その物語の中にいるということが、輪廻の中にいるという事でもあるんです。

ただ、実際にその輪っかが存在するわけじゃないですのでね。
輪廻という概念もまた、物語の一部なんです。

ついでに言うと、輪廻からの解脱というのもまた概念でして、
明らかになるのは、最初っから輪廻も解脱もないやんっ!ということですのでねん。

つまりは悟った人もまだ悟ってない人もいないという事が明らかになっちゃうんですよねー。

「なんや、特別な何かがあるわけでもなく、常なる変化が起こっていて同時に起こってすらいないだけやん。」
「定義しようとするから、そういう風になってるだけで。。。」
っていうことだけなんですよねー。

すると、深刻さだけがそこでなくなっていくわけなんですよね。

ま、そういうわけで、ちゃんと腹も減って食欲もわきますし、わかないこともあるでしょうし、欲も起こりますが、起こらないこともあります。
なので、
霞だけを食べていくことになるわけでもありません。

欲だけにフォーカスするという執着は薄れていきますので、執着が薄れることによって、今までこだわっていたことは手放されることもあるかもしれません。
フォーカスされることがなくなるわけではありませんが、それも自分とは関係なく起こっては消えていく一つに過ぎないんです。

手放しましょう。なんて言われたりもしますが、
手放さなくても良いし、手放してもいいし、どっちでも良いわぁ。
って感じになって、いつの間にか手放してる。

って感じが近いのかもしれません。
そもそも、掴んでるつもりでも、掴んですらいないという事がバレちゃいますのでね~。
バレてしまったうえでは、掴もうが手放そうがどっちでも良いんですよね。

なんていうか、目の前の今に対する脚色を加えることに対して、
その脚色が薄れていくんです。
脚色は脚色。それ以上でもそれ以下でもない。
ということが明らかになるんですね。

なので、手放そうが掴んでようが、問題ではなくなるんです。

じゃあ、次の問いにいきます。

「全てが幻想なら、
何を見ても幻想って事になっちゃうわけでしょ?
それならもう感動も消え失せてしまうってことじゃん。
私が私で無くなってしまうのなら、何のために生きりゃ良いんでしょう??
それって単なる虚無主義って事になっちゃうんじゃないのかなぁ。。。」

っていう問いについてなんですが、
うーん。ちょっと収まらん!ので、
続きます。

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