Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

マインドちゃんを納得させなくても良い

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どうしても僕らってマインドちゃんを納得させたい。
納得していないうちは、まだ何かが足りないんだ!
だから探求しなきゃならない。
なーんて思っちゃったりしますよねー。

このマインドちゃんっていうのは、ある種の反応であり動きなんです。

この反応っていうのは、単なるツールとしては使えますが、
それに翻弄されたり、支配されちゃうと途端に不自由さを感じたりもするわけですねん。
そして自分のご主人様がマインドちゃんになってしまい、
いつのまにやら、自分というものもマインドちゃんに支配されちゃいまして、
マインドこそ自分だ!っと居座っちゃったりするわけです。

もちろん、自分という誰かっていうのはいないんですよ。
ただ、ダイレクトな命そのものはありますし、
経験や気づきは、経験や気づきとしてあります。

その
「経験」と「経験をする経験者」
「気づき」と「気づく人」

っていう分離がないわけです。

ただ、経験や気づきを物語として組み立てる際に、
仮想的に作り上げてるモノが「自分」だというだけですのでね。

あれ取ってー。
これを食べたーい。

なんていう、あれとかこれ。
そういう代名詞的なものなんですよね。

ストーリーを展開して行くに従って、
自分とその他に分けていって、
そして、いつしかそのマインドの反応を自分だと仮定することになり、
そして、マインドが損なわれることは、=(イコール)、自分が損なわれることだ。

といったような観念を作っちゃうわけですねー。

 

ま、大体の人はそうやって、マインドちゃんが自分だ!という大前提を無意識に持ち込んでいます。
そうなってきますと、マインドちゃんを快適にしておかないと落ち着かなく感じたりします。
また、
マインドちゃんが納得できないと、自分が納得できないんだ。
なんて錯覚をするわけなんですよね。

そしてね。
マインドちゃんっていうのは反応や動きのようなものですので、それが止まっちゃうのも落ち着かないんです。
自分が失われてしまうっ!なんて恐怖を感じたりもします。

スーッと、マインドちゃんの反応を離れたそのまーんまに落ち着いちゃった瞬間!
おいっ!何をぼーっとしとるねん!戻ってこーい!
ぼーっとしとる場合やないで!いろいろとある懸案について考えようではないかっ!
懸案がないなら、懸案を探そうやないか!
って連れ戻しにくるんですよね。

そして、自分(マインド)に戻ってきて、
おお!ぼーっとしとった!って思ったり、
なんだろ?ボーッとしてる間、自分を離れた間、なんとも言えない安堵感を感じた気がするんだけど、、。
これが何なのか。突き止めておかなきゃ!
なーんて思ったりもしてね。

ま、どこまでいっても、マインドちゃんは単なる反応であって、
それはもう空の天気と同じようなものですので、
「そうねー。今日は雨をありがとうねー。」ってな感じで愛でてあげるくらいで良いんですよねー。

それは、マインドちゃんをマインドちゃんと認めてあげるということでもあるんです。
自分としないでね。ありのままのマインドを正当に扱ってあげるっていう感じかな?
ま、ちょっと違うんですがここはスルーするということで、、、。

するとマインドちゃんの声を必要以上に聞かなくなってきます。
もう自分ごとじゃなくなってきますのでね。

この辺のことを、私がいなくなるなーんて言われたりするのかもしれませんが、
だからといって、マインドの声が無くなるというわけじゃなく、
個性がなくなるわけでもなく、
今まで通りなんですよね。

そもそも自分っていたことがないですからね。

ただ、それが見抜かれることによって、こだわりは消えていくわけです。
副作用的にね。

先生によってはマインドを無視すべし!とか、癒して解放すべし!
って言われてる方もおられますが、別に敵ではありませんからねー。

別に無視しても良いわけですが
無視するぞー!ってやっちゃうと、余計に気になったりしますからね。
無視するために、ずっと気にしなきゃならない。
無視できてるかな?って確かめる度に気にしてる。
みたいなループになったりもしますのでねー。

でも、無条件に愛でてあげたら、もうその反応がどうあれ許されちゃいますので、気にする動機も無くなっていきますのでね。
そういう意味で愛でてあげればっていったりしてるわけです。

アンガーマネジメントや、深い瞑想なんかである程度マインドちゃんを飼い慣らせることはできるかもしれませんけど、
それだって、マインドちゃんの様子を伺い続ける召使いのようなもんになっちゃいますし、やっぱり天気のようなもんですので、大雨が降ることだってあるわけですしねー。
飼いならす旅も際限の無いものになっちゃったりするわけです。

ま、なので、単に見てあげて、そのまんまにしておいてあげるだけなんですよね。
ただ、見てあげるが難しい場合には、
いろんな癒しのワークや瞑想なんかが役にたつかもしれません。

見るための準備運動としてね。

単に見れるのなら、そういったワークは必要ありません。

準備運動の先に目指すものがあるわけもなく、準備以上の何かがあるわけでも無いですからねー。

で、単に見てあげますとね。
自分がマインドを観察しているように感じたりしますが、そのうち
実は見ている自分も、その対象もおなじなんやーんって解けていったりするかもしれません。

見る自分も見られるモノも同じなんですよね。
ああ、ホンマに自分なんておらんやん。
どこまでいってもあるのは在るものだけ。

見るものも、見られるものも、在る。

その在るに溶け込む時、その在るこそが真のあたりまえだと、
あたりまえに目覚めるわけです。

二元性という観念のなさに笑っちゃうんですよねー。

と、、、いうわけでして、
話をおもいっきり戻しますと、

マインドが納得してないなぁーって感じたりしたならば、
納得できる何かを探求し見つけようとする前に、

もしかして、納得させなくても良いんじゃないのん?
っていう可能性に目を向けてみると良いかもしれませんよ。

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