Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

マインドちゃんの暴走

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マインドちゃんってね。
本来は便利な道具なんですよね。

言葉もまた道具です。

ただこのマインドちゃん。
普段は便利な道具なのに、それが道具の範疇を超えた時には、
一気に自身を「苦と戦いの物語」に引き込んでくるという困った子ちゃんでもあります。

マインド、マインドと言いますが、
このマインドってなに?って言いますと、
簡単に言うと、
マインドとはイメージであり思考であり感情や記憶のようなもんの総称です。
感情は身体や心のサインであり、
思考はそれを体系建てるストーリーテラーであり、
イメージはそのストーリーにリアル感を付け加えられた頭の中の世界観なんですねん。

 

このイメージによって、自分やその信念。
そして自分の人生というものが、形づくられます。
あくまでもイメージの中でね。

すると、マインドちゃんはこの自分というイメージを守るために戦いを始めるわけです。

その争いの刃は、自分以外の何かと定めたものに向けられる場合もあれば、
自分に向けられる場合もあるんです。

自分を守るために、イメージを形作り、
そのイメージを守るために
自分を傷つける。

っていうねー。

おい!ちょっと暴走しすぎやぞ!
ってな本末転倒なこともやっちゃうわけなんですよね。

自分を傷つけてる場合。
それは、罪悪感や自信の喪失として起こったり、
自分以外に向けられてる場合には、
他人や制度や特定の信念に対する攻撃になったりするわけですね。

戦争だってその一環ですね。

それもこれも、自分の中にあるイメージを守るために起こってるわけです。

その奥にあるのは、恐れやというわけです。

その恐れが、自分を守るために自分を攻撃する。
自分を鞭打つっていう矛盾をも起こしてるんですよねー。

自分を守るために自分以外へ攻撃きをしていると思っていたとしても、
それもまた、自分の中のイメージの一部だったりするので、
結局自分を鞭打ってる。
なんていう事になっちゃったりするわけです。

そのね。
暴走を止めるためにはどうすりゃいいのか?
っていう話なんですが、
そこでふつうはマインドを抑え込んだり、
排除すれば良いって考えがちなんですけどね。

それもまた、いかにもマインドちゃんらしい考え方だったりしてね。
結局、排除しようとするのも自分のイメージを守るマインドちゃんだったりするので、堂々巡りになったりするんですよねー。

自分を守るためにマインドを排除しようとするこの働き自体がもうマインドである。
みたいな感じです。

じゃあどうすりゃええねーん。って話なんですが、
そもそも、マインドちゃんって、
思考やら感情やらイメージやら、、、って説明はできるかもしれませんが、
実際のところは、実体のないイメージ上のエネルギー運動のようなもんなんですね。

このエネルギーはどういう力学で動いておるか?と言いますと、
より良くしておこうというエネルギーです。

このより良くしておこうというエネルギーに対して、
「固定された自分」という観念がくっつきますと、自分をより良くしておこうっていう動きに変わっちゃうんです。

そもそも、自分という実体はどこにもありませんので、
その自分が身体の場合は、身体に働きますし、
信条や考えだったら、そこに働きますし、
自分が所有しているものだとしたら、そこに働くわけですね。

時には集団を大きな意味の自分と捉えて、そこに働く場合もあります。

その集団が宗教組織だったら、それをバカにされたら自分が損なわれたような気になったりするわけです。

イデオロギーであっても同じように働きます。

阪神ファンだったら、阪神をバカにされたら本気で腹がたつっちゅうのとよく似た働きですねー。

全体は完全な愛と調和な訳ですが、そこに分離という観念を持ち込んだ時に、
分離される事によって失われたものを取り戻そうとする働きが起こるんですよね。

この分離によって、「自分」が生じますので、自分が足りない自分を取り戻そうとするわけなんですよね。

その分離の中では、分離という大前提が作り出されます。
その大前提があるからたりない何かを探さなきゃならなくなり、
それを探すから、足りないというストーリーを強固にさせちゃう。
みたいなループが起こるわけですね。

つまりね。
マインドちゃんは、十分に満ち足りて許されることを求めておるわけです。
そして、全体はすでに満ち足りていて許されております。

単に「そうは思えなーい!」っていうイメージがあるだけでしてね。

なので、まずは嘘でも良いから、許してあげちゃえば良いと思うんですよね。
嫌な人がいるのなら、その嫌な人を許すんやなくてね、
そういうのは無視したったらええんですけどね、

あくまでも自分のありのままを許してあげるって感じです。

怒りの矛先も、
怒りがある自分という罪悪感も、
不安があるということも、
許してあげちゃう。

そして、許せないという思いが起こることも
許してあげちゃう。

より良くしようとするその働きがあるという事も、
許してあげて、愛でてあげるんです。

そして、鞭打っていた自分、鞭打たれていた自分をいたわってあげるんです。

そうする事によって、本来の許されているそのまんまと溶け合っていくんですねん。

でもまだ、問題がある!
という思いが、そこに衝動として残ってくるかもしれません。
この子たちも許し愛でてあげたら良いんです。

そして、自身のアホさも許してあげるんです。

許されちゃうと、足りないものを埋めなくて良い事になります。

すると、最初から足りないものなんてなかったという、
元々あった全体性がひょっこり顔を出してきてくれるかもしれません。

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