「それ」とか「ありのまま」ってなんやねん?
ってね。思われる方もおられるかもしれませんが、
ホント、言葉の通り「そのまんま」のことなんです。
そのまんまとは、どんな色にも染められてない「そのまんま」であって、
それでいて、どんな色に染められてるとみなしていたとしても、
それもまた同時に「そのまんま」なんですね。
だから、どうあがこうが、僕らは「そのまんま」からは逃れられません。
よく言われている例の一つでね。
映画のスクリーンの例があるじゃないですか。
『映画のスクリーンが「そのまんま」です。
僕らはスクリーンを見ながら、いろんな場面を見ていますが、
どんな場面が映し出されていようともそれはスクリーンです。』
ってねー。
でもこの例えって、一個大事な事を言い忘れてる部分があるんですよね。
それは、
そのスクリーンを見てる自分という存在もまたスクリーンに映し出されている1つのシーンだということなんです。
だから、自分がスクリーンを発見することは出来ないんです。
それでいて、自分はスクリーンから逃れることもできませんし、
自分は既にスクリーンそのものなんですねー。
しまった。。。
なんか簡潔にまとまってしまった。。。
でも、せっかくなので、もうちょっと続けてみたいと思います。
よく、このブログでも、
「許してあげたらええねん」
「そのまんまにしておいてあげたらええねんでー」
って書いたりしてますが、
冒頭にあるように、既に自分が「それそのもの」であり、
「それ」を自分が発見することは出来ないのだとするなら、
許してあげたり、そのまんまにしてあげたところで、どうなるの?
なーんてね。
思われる方もおられるかもしれませんので、
その辺について書いてみたいと思います。
ちなみに、どうなるのか?って言いますと、確かにどうにかなることはないんですけどね。
もし、「そのまんま」としてある全ての中で、何かを掴んでるんだとしたら、
その掴んでいるものを単に見ることはできるんですよね。
僕らは、何かをつかむ時、掴むと同時に、その掴まれたものにとらわれちゃうんです。
虫カゴをゲットしたぜ!と思ったと同時に、その虫カゴの中に囚われちゃう。
みたいな感じです。
そして、掴んだ途端、掴んだものの中でしか世界を展開できなくなるんです。
また、
掴むことにこだわっちゃうと、つい力が入って、掴んでるものが小さくなっちゃうんです。
小さくなればなるほど、窮屈さが増えてくるんですよね。
どういうことかというと、例えば両手でふわっと何かを支えるようにして、
何かを持っている場合って、結構大きなものを持てるじゃないですか。
でも、力んでくると手をぎゅっと閉じますよね。
すると掴んでいるものも小さくなりますよね。
ぎゅっと握れば握るほど小さくなりますね。
おにぎりを思いっきり力を入れて掴む!って感じです。
そんな感じで、掴むことにこだわりが強くなると、リキみも大きくなって、
掴んでるものが小さくなるわけでして、
それがまた窮屈さを生み、
その窮屈さを解決するためにさらに何かを掴み取りたくなる。
みたいな、悪循環がおこったりするわけですね。
これって、やっぱり何かを許せないからその解決策を掴もうとしとるわけなんですが、
「それ」「そのまんま」は既に全てが許されているんですよね。
だって、実際には窮屈さも掴まれたものも存在しませんからねん。
許す許される以前に、すでにそれでオッケーですがな。
って感じでね。
何かを掴み取って、そこに「許せん!」って思いがあると、さらに掴み取らなきゃならなくなり、
掴み取るからその掴みとったものからストーリーが展開される。
つまりは許されてない間だけ、ストーリーにとらわれちゃうんですねん。
ただちょっと、補足しておくと掴みとっちゃうことは、本能として起こってますので無くなりません。
ただ、許してあげちゃうと、掴んだものを掴み続ける握力がなくなってきますし、
掴んだものに対してさらに、ストーリーを展開させて、、、って連鎖させていくエネルギーが弱まっていくんです。
だって、許されちゃってますからね。
探求の意義がありませんので、、、。
許されちゃったとしても、起こることは起こりますし、
そんなストーリーが起こっていたとしても、「そのまんま」で、「ありのまま」なんです。
なので、「それ」とは状態ではありません。
どんな状態であろうと、単に「それそのもの」しかないよねって見抜かれてるだけなんです。
見抜かれちゃうと、許されちゃいますし、
同時に「許せない!」があってもそれでいいよねーって、それも許せちゃいますので、掴みとりのエネルギーは行き場を失うんです。
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