Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

瞑想に過度に期待しちゃうと、ややこしいストーリーに巻き込まれちゃうかもよ。

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ぼくらって普段はイメージを現実化したものを世界として認識しています。

たとえば、「止まれ」って書いてあったら、
お、飛び出したら危険なんやな。ちょっと止まるか。
って思いますよねぇ。

じつはこの「止まれ」という文字も、意味のないマークのようなものなんですが、
このマークに対して「止まれ」という意味を脳内で創り上げてるんですよね。
で、今までの記憶を参照すると、こう書いてあるところはこの先に危険がある。
例えば崖になってたり、工事中だったり、車がビュンビュン走ってる場所だったり、、、。
なので、お、この先は危険なんか。
って考えるわけなんですね。

この一連の考え全ては、イメージに過ぎないわけですが、どうにもそれを現実として受け止めてるわけです。

もちろん、止まれと書いてあったら、素直に止まれば良いんですけどね。

イメージのストーリーだからといって、それは嘘だからと無視するというわけじゃありません。
実際には嘘もホントもありませんのでねー。

ただ、ストーリーを唯一無二の現実だと思い込むと、窮屈に感じますよぉーってお話なんです。

まあ、単に思いついた例をあげてみましたが、言いたいことは
僕らが感じている現実はイメージで作られておるっちゅうことです。

そしてね。
その意味においては夢も現実も一緒なんですよね。

イメージは時に現実感を持って迫ってくるっちゅうわけです。

というわけで、今日は瞑想のお話をしてみたいと思います。

 

本来の瞑想ってね。
ぼーっとしとることなんです。

ぼーっとしとるっちゅうのは、
思考や起こってくるイメージの一切を置いておいて、
単に座る。
それだけ。

これが瞑想の本質です。

それでおしまいですので、別に瞑想自体にコツも奥義もヘッタクレも無いんですよね。
じゃあ、世にはびこる様々な瞑想法ってなんやねん?
っていいますと、
単に座るための準備の方法だったりするんです。

考えや頭の中のおしゃべり、
感覚への意識の執着が強すぎる場合は、

「単に考えを置いておいたらええですねん。」

って言われても、
やっぱり胸の方につっかえを感じてることが気になったり、
思いのストーリーに巻き込まれたりしちゃうわけです。

そうすると、中々単に座るっていうのが難しく感じたりしちゃいますので、
それならばということで、
まずは考えを置いておくために別の何かに意識を集中してみたり、
ベッタリくっついているこの考えを、単なる思考でっせ!って気づく練習をしてみたり、念仏を唱えたり、呼吸を意識してみたり、ある種のイメージを意識してみたり、
マントラと呼ばれる言葉を意識してみたり、、、って色々とあるわけです。

いずれにしても、起こってるくる考えを単に置いておいて、
単に座る。
っていうのが瞑想ですのでね。
考えの一切を封じ込めるということではないんですよね。
また、別の信念で今までの考えを書き換えるということでもありません。

準備運動である様々な方法論にこだわりだすと、なんていうか手段が目的のようになっちゃったりして、
いつしかそれが、
起こってくる思いを滅却するといった戦いになったり、
妙なパワーを得るためのものになったりって、
手段が目的にすり替わっちゃったりするんですよねん。

こうなると、今までのストーリー体系にもう1個、壮大なストーリーを付け加えとるだけという事になりますのでね。
単に座るからはかけ離れた的外れになっちゃったりするんですよねん。

またね。
瞑想中にはなんにも起こってないんですけど、何かが起こってるんだ!って思っちゃうと、何が起こってるのか?といった分析が始まったりもするんですよね。
そうなると、終わらない探究がはじまって、終わらないストーリーが展開されちゃうんです。

でね。
もいっこ注意点のようなものがありまして、
冒頭にも書いたように、僕らはイメージを現実として捉えてるわけですが、
普段はいろんな刺激を通して、イメージが散漫になってたりしてます。

今何時や?
今日何食べよ。
あーー!今月の家賃振り込むの忘れとった!
クソーあいつにあんなこと言われた。
あ、石ころ落ちてる。
むむ、、、今日は雨が降りそうやな。。。

みたいな感じでね。

でも、思考を一切おいておくってのをやりますと、細かい思考が静まっていくことで、奥にある封じ込めたと思っていた嫌な記憶からくる感情なんかがね、静かになったことでふと出てくることがあったりします。

そんなイメージが現実感を伴った感情として出てくる場合があったりするんですよね。
はたまた、抑え込んでた怒りとか恐怖もね。出てきたりする場合があるんですよねん。

怒りも恐怖の一部なんですけどね。
そういうのって、あったら嫌なもんですから、結構抑え込んできてたりするんです。
普段は別の思考にかき消されてたりするんですが、不意にそういうのが思い出されたりするわけです。
現実感を伴ってね。

はたまた、いろんなイメージを鎮めることによって、キレイになったキャンパスに新しいイメージが描かれたりもします。
するとそこに強烈な現実感がくっついてきたりもするわけです。

そうすると、そういったイメージが現実感を伴って襲ってくるような感覚になって取り込まれちゃったりするんです。

とくにイメージを使った瞑想法なんかをとりいれたりしてますと、そのイメージに伴った現実感が襲ってくるような場合もあります。

そこで、瞑想中には、何かが起こってるなんていう観念もありますと、
ますますイメージの現実化が進んじゃったりするんですねー。

そもそも、起こってくる思考というのは、個人に起こってるというものもありますが、共有されてるモノもありますのでね。
(まあ、もっというと個人も共有もないんですが、、、。)

そういう世界観も現実感を伴ってやってくる場合もあるんですよね。

そういう場合は、テレパシーや!シンクロや!みたいな現象が起こったりもするわけですが、
そうなると、今度はスピ系の世界観が一気に花開いたりする場合もあったりするんです。

この辺を思いっきり掴んで捉えちゃうと、その誤解からくるストーリーが一気に展開したりもするんですね。

自分に何らかの能力が開花した!って思ったりすることもあります。
強力な現実感を伴ってね。

いずれのストーリーにも正しいとか誤りというもんは無いですし、
オモロく味わえばいいもんなんですが、
そこに現実感が投影されることによって、
ストーリーをこじらしたりすることもあったりするわけですねー。

こういう不思議系な霊的な経験は、実際に経験として起こる場合もあれば、
単なる妄想的な場合もあるかもしれません。

そして、面白いことに同じ世界観を経験をしてる人同士で、バッチリ合致する場合もあれば、全く噛み合わない場合もあります。
もっと詳細な世界観まで見通す方と、上っ面だけを見る方もおられることだと思います。

ある人が霊的に捉えた世界観が、別の人が捉えた世界観と同じ。
みたいな感じですね。
あの人の前世は誰で〜。みたいな感じ?一例を挙げたらですが、、、。

そして、その能力に差があるように見える場合もあれば、逆に全然合致しない場合もあったりするというわけですね。

そして、さらに面白いことに、
より詳細な霊的世界観を見る人も、
上っ面だけの人も、
そして、単なる妄想の人も、、、
色々といると思うんですが、
そこに価値の差は、一切ないという事なんです。

あの人の方が霊的に格が上とか下とか、あいつは単なる妄想だとか、、、。
それらに全くの差が無いんです。

みーんな同じく単なるストーリーなんですよねん。

神々しい体験と、昨日餃子食べたで!っていう体験にも一切の価値の差も無いんです。

価値の差があるという誤解が強いほど、ストーリーに対するこだわりが強くなるわけでして、こだわりが強ければ強いほど、ストーリーに対する深刻感も増してくるというわけですねー。

価値の差がないという事は、価値の意義も無くなりますので、
あらゆる事は起こりますが、起こる事は全て無価値だ。
ということでもあったりするわけです。
差が無いなら価値なんて無意味ですからねん。

まあ、この辺のファンタジー系のことは、ややこしいですので、書いた例も一例に過ぎないわけでして、あまり詳しく書く気はないんですけど、
要するに、瞑想になんらかの意義を感じちゃったり、手段が目的になっちゃったりすると、途端にストーリーに引き込まれることもありますよーっていうことです。

またね、勘違いされやすかったりするんですが、
思考を一切おいておいた状態。
究極の深い瞑想状態。
それが「さとり」であり「それ」であるという事でもありません。

そういった状態を「空(くう)」と呼んだり、そうじゃない日常を「色(しき)」と呼んだりする場合もあったりするんだと思うんですが、実際にそういった分かれた世界があるわけでもないんです。

それもまた、分離からくるストーリーなんですよねん。

と、いうわけで、なんだか話がややこしくなっちゃいましたが、
わからんままに、何も掴まずにいてみる。

すると、ものすごくつよ〜い何かを掴もうとする衝動が見て取れると思うんです。
その衝動を単に見てあげたら良いんです。
その衝動の中身は気にしなくてもいいんですよねん。

長くなっちゃったので今日はこの辺にしておこうと思いますが、
別に瞑想をディスってるわけでも礼賛しているわけでもなくてね。

ちょっとしたストレス軽減のラジオ体操みたいなもんや!
くらいに捉えてたらええんちゃうかなって思うんです。
過度な期待って、何かを掴もうとしちゃいますからね。

というわけで、簡単にまとめますと、
瞑想ってリラックスやストレス軽減にはとっても良いと思うんですが、
手段が目的化しちゃうと変な方向にハマっちゃうかもよー。
楽しくハマってるならそれも良しですが、何かしらのしんどさを感じるなら、
あれ?もしかして、ワイ、何かにハマってる?ってことを見てみても良いかもねー。

そもそもこれって何かを手に入れる手段でもないですからねーん。

っていうお話でございました。

まった明日~♪

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