Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ダイレクトなありのまま

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ダイナミズムに包まれているとき、人は幸せを感じます。
ダイナミズムっちゅうのは、思考を採用せずにそのまんまにダイレクトにあるということです。

まあこれは別に大げさなことでは無いんですけどね。

お尻に感じるクッションの感覚。
これがもうダイナミズムなんです。
ここには生の感覚がありますよね。
それはまさに命の感覚です。
そして同時に思考も起こってると思うんです。これもある種、命の感覚と言えるわけですが、その思考の内容、その中に起こるストーリーに関しては単なるストーリーであって、命のダイナミズムってそのストーリーの中にはないんですよね。

 

そんな中、起こってくる思考に対してなんとか対策せなあかんってなってる時にね、その対策が出てこない場合に苦を感じるわけですねー。
なので、対策案をたくさん作っておこうとするわけです。
そのためには、自分をよりよくしておかなきゃいけなくなるわけでして、よりよくなるための何かを探求するわけです。

でもねー。
いずれはその対策案も尽きてくるわけです。
対策は無理ゲーやからです。
うまくいかなきゃいけないという思いは無限に湧いてきますが、
対策案は具体的でなきゃなりませんのでね。
勝てる見込みは無いわけです。
また、起こる事って絶対にわからんですもんね。
そして、そのわからんが正解なんですけど、どうしてもわからんままじゃアカンやろーって思い込んじゃうわけです。

そうやって思考のストーリーにずっと巻き込まれておりますとね。
ダイレクトな命の感覚を置いてけぼりにしちゃってますのでね。

対策しなきゃいけないのと同時に生きる実感も足りない。
なんて思いにもかられちゃったりして、、、。

あれれー?わしの幸せどこに行ってしもたんやろう?
って思ったりもして、それも探さなきゃいけなくなったりもするわけです。

時々、それを見つけることがあったりもします。
何もかも忘れてパッとしよーぜーって、パーリーしている間は幸せですし、
ヌォーっ!!て走っていて、思考がぶっ飛んだ時もランナーズハイって感じで幸せですし、
山とかに登って自然に圧倒されて思考が消えた時は幸せだったりするんですよねん。

深〜い瞑想に入って、思考の一切が取り去られた時なんかにも、深い静寂とその安心感を感じるかも知れません。

一切に思考や観念がない時、残るのは命のダイナミズムなんです。
言葉にならない何か。
それは完全な静寂であり、同時に変幻自在の動きそのものでもあるんです。

ただね。
どうしてもその静寂を掴み取るものだという大前提の誤解があったりしますと、
ホントは、思考に乗っかってたから苦があるように感じてただけで、実際には命のダイナミズムから、一切離れたことなんてないのに、

パーリーしてたから、幸せだった。
瞑想中したから静寂に入った。

みたいなね。
勘違いが生じたりもするんですよね。

そうなるとまた、それを繰り返して、幸せや静寂を探し求める。
なんてことになっちゃったりもしてねー。探求が終わらんわけです。

アホでええねんで、起こってることは起こるがままに許してあげたらええねんで。
っていうのは、
わからんという真実に留まること。
そして、起こっている「ありのまま」を「ありのまま」に見るということなんです。

このままじゃいかん!もっとこうあるべき!という思いが起こったなら、
それを抑え込むんじゃなく、そういう思いもそりゃ起こるよね。って許してあげるんですね。

うまいこといかーん!となって、対策が見つからんときは、
ま、そういうこともあるよねーって許してあげるんです。

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