Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真実の探求とヘラクレイトスの川とテセウスの船。

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ヘラクレイトスの川って話、知ってはります??

宇宙の秩序とは、永遠に燃え続ける火のようなもんですぜ!とかいう言葉を残している昔のギリシアの哲学者、ヘラクレイトスっていう人が言わはった言葉なんですけどね。

ヘラクライトスの川とは、
あんたは2度と同じ川には入れませんよ!
ってな話なんです。

つまり、川は常に流れていますので、川に入った時の水は、2度目に入る時にはもうありませんよん。
ってなことをゆうてはるんですよね。

よく似た意味の言葉で、
テセウスの船というものがあります。

テセウスさんも昔のギリシアの人ですが、このおっさんが乗ってた船をね。アテネの人が保管してはったんですが、やっぱりときがたつと木が腐ってきたりして古くなって来ますので、その度に新しい木で補修してたんですよね。
いつしか、部品全部が補修された時に、ちょっと待ったー!ってある哲学者が色めき出したんですよ。

おいっ!部品が全部交換されたこの船は果たしてテセウスの船だと言えるのかー!
ゆうてね。
するとまた他の哲学者が、ちょっ!!!じゃあ、古くなったテセウスの木を集めてもっかい組み立てたら、こっちがテセウスの船になるんか??どっちがテセウスの船と言えるんや???

って議論が巻き起こったというわけです。

そんな議論から発展して、
そもそも物体は何をもって存在するって言えるんや???
ってな議論になりました。

これに対して、アリストテレスさん他、いろんな哲学者が解答をまとめてますけど、
ま、簡単に言うと、
船を船とするには、定義や機能的に同じであれば船とみなして良いんやないか?
船が船として機能し、船とは水を進む乗り物であるという定義が一緒やったら、船だといって良いんとちゃうんか?

みたいなところに落ち着いてるらしいです。
詳しくはややこしくなりますので、ここでは書けませんが、
少々目をつぶってがっつり要約するとそんな感じです。
詳しい人にはちゃうわいっ!とか言われそうですけど、、、。

ま、つまりは、物体が物体として認識されているのは、ある種の定義づけがあるからだと言えますね。
物体の部品は必ずしも一緒じゃ無くて良いというわけです。

そうしないと、物体を物体とすることは出来ないということですねー。

 

定義とは、ある種のルールづけのことです。
ルールとは考え方のようなもんです。
概念化ですね。

原理としてはおママゴトのルールと全く同じものです。

いずれにしろ、そのモノ、物体自体は概念なしでは個別化はできないっちゅうことです。物体は常に入れ替わっておりますからねん。

僕らの身体だって、構成する部品は常に変わっていきます。
僕ら個人も物体そのものではなく、ある種の概念を使って、自分を自分としているわけです。

心だってずっと一定じゃ無いですよね。内容は変わり続けてます。でも、これも概念で自分の心だとしているわけです。

この概念っていうのは、ある種のルールに従った定義づけでしかありません。
このルールが変われば、定義づけも変わってくるわけでございます。

ありとあらゆる物体もルールに従って定義づけられているのであれば、これはもうおママゴトルール上でおままごとを楽しんでいるのと原理的には全く同じようなものなんです。

ルールの中には真実はありません。これは単なる決めつけでしかありませんからね。

なので、どんな概念やどんな定義を追い求めてみたとしても、その中には真実は無いと言うことになります。

僕らが無意識に信じ込んでいる概念の中にも、その概念のルールブックの中には真実は無いっちゅうことです。

でも、真実っていうのは、どこかに行ったりするはずもないんですよね。
だって、ウソっていうのは、作り上げなきゃ存在しませんが、真実は誰かが作らなくても、最初からあるはずですのでねん。

もし、真実というのが誰かが作ったものだとしたら、作られた時点でそれは真実ではなくなるんです。
色付けされたものの、色付けされた中には真実はなく、色付け以前にあるものっちゅうことになりますからねー。

じゃあどこを探せば良いのか?と言いますと、作られたルールや概念を一切採用しない所。
と言うことになります。

それは、どんな物体の中にも無いし、
どんな言葉の中にも無いと言うことになります。

だって、言葉だって概念化されたツールですからねー。

身体や心だって概念化されたものだとしたら、自分というモノの落ち着きどころもなくなります。自分というのも概念だとしたら、他人や自分以外の他のものという概念も同時に消え失せます。

こういうことにしとこーぜーというルール、定義づけ、概念を外せば外すほど、
個別だった物体の全てが繋がり出します。

そうして、最後には全部が、そのまま、何も手を加えられないありのままとして残るんです。

そして、どんな定義づけやルールづけ、概念化が行われてたとしても、そのままの全部はなんら変わることなくここにずっとあったんやん!ってことも明らかになっちゃうんです。
面白いことに、概念化させていたこのエネルギーもまた全部の表現の一部だったんですよねん。
うほー!ほなら悩んだりしてた時もちゃーんと全部と一緒やったんやんかー!てなことになるんです。

ホント、そのまんまで良かったんですね。
そして、探すところはもう無くなり、探求は終わるんです。

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