時間よ止ーまれ!
ってねー。
漫画や映画なんかでよくある時間が止まるっていう設定では、
ピターんと人の動きが止まったりしますよねぇ。
川の流れも止まり、
空気の流れも止まり、
人もピターってとまっちゃったりして。。。
あれ、
ありえへんですよね。
もし、時間が止まったとしても、ああはなりません。
だって僕ら、時間があるから動いてるわけじゃないですからね。
どういうことよ?
って言いますとね。
時間ってのは後付けの観念にすぎませんやん。
ってことです。
最初っから全ては変幻自在に動いていて、そこに時間はありません。
動いているエネルギーは時間というものから原動力を供給されているわけでもございません。
動いているもんに、後から勝手に単位をつけて、測ってるだけなんです。
なので、
時間が止まろうが、なんの干渉も受けないわけでございます。
時間という観念を後付けする前から全ては動いておるんです。
後からつけた観念が時間なのに、その観念がいつしか、動きよりも先にきて、
動いているということは時間が流れてるんやな!
ってあべこべな解釈をつけちゃうと、「時間が止まれば全てが止まる」みたいな考え方になるわけです。
「わしが育てた!」
ってゆーてるのと似たようなもんです。
時間は流れてないんですよね。
季節や暦は移り変わっていったりもしていません。
そもそも暦っていうのも、
人だけの間でここ最近流行ってる考え方に過ぎないですからねー。
暦って、使い始めたのだって数千年前でしょ。
人はもう何万年も前からおるわけですからね。
そういうスケールで見ると、最近ですよね。
全ては変幻自在に動いてます。
ただ、動いているとみなしているのも後付けであって、
動いていて、動いてないんです。
この表現は一見ややこしいかもしれませんが、
動いている、動いてない。っていう判断に縛られてすらいない。っていうのが実相でございます。
それ故に、全ては決して固定化できません。
だから、持っておくこともできないんですよねー。
持っておくことができないそれに言葉や概念というレッテルを張ることによって、固定化してつかんでいるような気になっているだけなんですよねん。
動きはまさにダイナミズムです。
命の表現そのものです。
そして、この言葉の中にはイノチの動き、ダイナミズムはありません。
単なるストーリーですのでねー。
全ては何にも判断をされないなかでダイナミックに在ります。
そして、静寂と喧騒を併せ持っておるんです。
それを言葉でつかんだとしても、掴んだものにはダイナミズムが取り去られてしまってますので、単なる無味無臭の観念に成り下がってしまうわけです。
だから、「それ」は言葉では表現できないわけなんですよねん。
それは、在る。
くらいにしか言えないわけなんです。
言っちゃった時点で既に違うもんになるんですよね。
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