実は真の幸せって手に入りません。
これって、残酷な宣告ですよねー。
だって、人ってやっぱり幸せになるために生きているわけであって、
だからこそ、その方法を探し求めてるわけじゃないですか。
そのためにそこへ向かって頑張ってるっちゅうのにねー。
なのに、手に入らへんなんて。
そんな殺生なこと言わんといてや。
って思いますよねぇ。
でもね。
実はこの事は、もんの凄い救いでもあるんですよねん。
僕も何を隠そう、真の幸せはもう
悟りしかない!っちゅうことで、それを求めてた時がありました。
正直、それを求め始める以前はほとんどそういったことには興味はなく、
上へ上へと成長していく事が生きがいでしたし、
そうやっていくとその先に幸せがあるんだ!って思ってたんですけどねー。
結婚生活の破綻やら、仕事を失う経験やらで、
自分の実力のなさを、まざまざと突きつけられた時、
残る道はこの悟りとか言われてるやつしかない!
ってそこに救いを求めたんですよねー。
で、もう全てをかけてこの悟りを手に入れたるぞ!
って意気込んでたんですが、そんなある時、まざまざと知らされたのが、
「あ、幸せって、真の幸せって絶対に手に入らへんのや!」
って言う事だったんです。
もちろん悟りだってじっさいはありゃしまへん。
誰かに訪れることもありゃしまへんのどすねー。
んなことをこれでもか!って知らしめられる。
あえていえば、それが「探求の終わり」と言えるのかもしれません。
そして、そのことに対する深い理解が、一見、残酷に見えますし、
殺生なーって感じに感じられるんですが、
実は、その逆で、それがまさに救いになったんですよね。
なんでそれが救いやねん?
と言いますとね。
それは手に入れる必要性がなかったからなんです。
不幸、苦っていうものは、
どこかで幸せが手に入るはず!という思い込みとセットになってたんですよねー。
苦の不在=(イコール)心の幸せは手にする事ができないと知る事。
やったんです。
そして、手にする必要すらないっていうのは、もうそこにあったからなんです。
何も手にしていない赤ん坊が天使のような笑顔を見せるのは、
まさにそこにある幸せを表現しておるからだったんです。
至福って、苦の不在を知ることやったんです。
もっと正確にいうと、苦はあってもええことやったんですねー。
いままで苦である、不幸であるとしていたものさえもまた、
ここにある真の幸福と同じものだったんです。
物や状態、地位、そこには真の幸せがないことを深く知っちゃうと、
そこへの渇望が失われていくんです。
ただ、これはものを手に入れようとしなくなるとか、そう言うことでもないんですけどね。
必要なことは、必要なこととして起こるわけですからねー。
金儲けしたくなれば、楽しくそれをすれば良いわけです。
それが明らかになるにつれて、
モノや状態、あらゆるルールに縛られなくても良いんだねー。っていう自由さもまた、明らかになってきます。
悟りを気取らなくても良いし、元々あった、ダメな自分で完璧だったんです。
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