Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

有ると無いと価値と無価値と。

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有る物に対しては価値があり、
無いものに対しては価値がない。無価値だ。
っていうのはまあ言わずもがなの考え方ですよねぇ。

なので、そんな中で、
「自分はどこにも無い」という言葉を聞いちゃうと、
なーんだ自分って無価値なんだ。
幻想だったら価値はないんだ。
ってなっちゃいます。

でもそれはちょっと違うんですよねー。
なんていうか、自分はいない。私はいないを概念上に引っ張り出して概念にしちゃってるっていうか、、、。
実は概念自体があるように見えて無いんですよー。ってことですからね。
なので、価値があるとか、価値がない以前にね。
価値というのも概念ですよーってことなんです。

だから、なーんだっ自分はいないのかー。残念。
ってな感じで、自分の無価値さに失望感を抱かなくても良いんです。

 

また、なにか、非二元の覚醒みたいなものが起こったら、自分が無価値になるのか?
なんて心配もいらないんですよねー。

それどころか、全てはまさに本質の愛そのものですのでね。
かけがえのないものなんです。
いままで隠れていたかけがえのないあらゆるものがムクムクと出てきてくれます。
自己肯定感を満足させなくても良い、
完全な肯定、許しが「ここ」にすでにあるんです。

ま、とういうわけで、
価値も概念なら、有るとか無いっていうのも概念なんですね。

そして、概念を現実とみなしている間、それが現実のように振る舞うわけです。

概念を現実とみなしていますと、その概念に縛られちゃうんです。
だから、採用している概念が多ければ多いほど、不自由感をかんじたりするわけです。

でも、最初っからそういった概念があるわけじゃありませんよね。
色々な経験を記憶に蓄えてきたり、いろんなことを聞いたり見たり、、、。
そういうことをしていっていろんな概念を集めてきたわけですから。

そして、その概念が現実として振る舞うから、いわゆる思考がそのまま現実としてふるまってるわけですね。
概念っていうのは思考とセットになってますからね。

でもそれがイメージであることが見抜かれていくと、
どんな概念にさえ縛られなくても良い自由さが明らかになってくるわけです。

自分という概念も概念として見抜かれると、そこには分離のない、
ずっとあった「それそのもの」が姿をあらわすんですねん。
ま、言葉ではうまく表現できませんが、、、。

だから、何も失うものはありません。

そして、私はいないからといって、
自分という感覚もなくなりゃしません。
その感覚が概念化されたものに対して、それを概念だと見抜かれるだけなんです。

見抜かれることによって、その感覚がより自由に解き放たれて、解放されるんです。

自分という檻からも解き放たれてくれるんです。

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