Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

オーケストラ

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あらゆることは起こっては消えて行き、常に変化を繰り返しています。
そしてそれは全て連携されたオーケストラのようなもので、その音1つ1つは、分離されていません。
完全に調和されたオーケストラではありますが、観念が好む音色か?と言われると、必ずしもそうではなく、観念が好まない場面もあれば観念が好む場面もあるわけです。
そんな中、観念は好む音色を求め、好まない音色は起こらないように管理したがるわけなんですよねん。

管理の上で次にどんな音色が奏でられるのかも観念は知りたがります。
そしてよりうまくコントロール出来るようにしようとコントロールのより良い方法を模索するんですよねん。

 

好まない音色は観念にとってはとても調和しているようには見えず、
単調な音色は観念には物足りなく感じるんです。

でも、この物足りなさって、別にオーケストラの音色に問題があるわけじゃなく、観念の判断が音色を良いものとしたりダメなものとしたりしているわけですからね。
問題がないところに、問題を作ってるのは觀念なんですよね。

で、じゃあ何でそんあ観念が出て来るねん?って言いますと、これらの判断はだいたいは記憶が判別しているんです。
この記憶による判別が、良いとか悪いってやってるわけです。

記憶による判別は、以前の出来事に依存しております。
以前は問題であり今は問題がないものであっても、未だに問題意識をつかんでいるものも数多くあるんですよね。

この問題意識について、「もう今は大丈夫だよ。」ということに気づくアプローチが癒しのアプローチの1つにもなっているんです。

ただ、いずれにしても観念は判断し分類をし続けますので、分離の観念は常にあらゆる観念と共にあるんです。
で、観念はストーリーを紡ぎ出し続けます。
それがお仕事ですのでね。

さて、このオーケストラの音色はどこから湧き出るのかというと、それは僕らが探し求める源泉から現れております。
全ての源泉。
それは真我であったり、「それ」であったり、霊的エネルギー?だったり、神だったり、、、。
言い方はなんでも良いですがね。

ただ、面白いことにこの源泉とオーケストラのねいろは一切分離されておらず、源泉はそのままオーケストラであり、オーケストラはそのまま源泉そのものでもあるという性質を持っているんです。

オーケストラ、つまり目の前で起こってること。
それが単調に見えるものであれ、悲しく見えるものであれ、
もうそのまんまが既に同時に源泉そのものでもあるんです。

静寂である源泉からありとあらゆることが表現されますが、
そこに時間の経過はなく、同じなんですよね。

だから、「起こっていて起こってない」んです。
一見矛盾するこれらを、完全な調和のもと、持っているのが「それそのもの」であり、だから言葉での表現が不可能だったりするんですよねん。

なぜ表現不可能かというと、言葉は取捨選択をして、白か黒かのどちらかを選び選択するという性質を持っているツールだからなんです。
言葉はある種のツールでしかないので、万能じゃなく、観念の中でしか機能しないんです。

そして、このオーケストラは自分自身が鑑賞者であり、その音色を聞いて味わっているように見えたりしますが、実はその鑑賞者もまたオーケストラの一部であり、音色を聞いた後、何かしらの判断をする観念さえもまた、オーケストラの一部であり、その一部は同時に全体でもあるんです。

だから、観念が外れた時、「それそのもの」のオーケストラの調和が明らかになると同時に、観察者もまた「それそのもの」であることが明らかになるので、「それそのも」のに溶け込んじゃうんです。

これを言葉で表現すると、自分がそれに溶け込んでいく。。。
ってな表現になりますが、実際のところ最初っから溶け込んでますので、そのことが明らかになっていくって感じでもあるんです。

西遊記のお話しにもあるように、世界の果てまで移動しようとも、どこに向かおうとも、お釈迦さんの手のひらからは逃れられてない。っていうのと同様に、それそのものからは何をしてても逃れられてないんです。
そんな中で、それそのものを探し求めているっていうことも起こってたりするんですよねん。

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