Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

解釈からの解放。

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この前テレビでマインドフルネスの特集がやってたんですけどね。
マインドフルネスはいつの間にか同一化しちゃっている思考があること。
そしてそれが思考であるということを見ること。
みたいな内容だったんですけど、まあこれ、坐禅や瞑想と一緒ですね。

呼び方をもっとカジュアルな感じに変えるってのが目的なんですかねぇ。
まあでも、カジュアルな感じで流行ってくるのは良いんじゃないかなーって思います。
瞑想とか禅とかってどうもちょっと修行っぽいっていうか、
宗教色、スピ色があったりしますもんね。

普段は思考であることに気づく以前にね。
すでに同一化しちゃってたりしますのでねー。
で、同一化してることにも無意識だったりしますので、
大体の瞑想とかって、まずはその同一化してるっちゅうことに気づくため、そしてそこから距離を置くために別の何かに集中してみるっていうことをやってみたりするんですよね。
で、同一化が抜けてきたら、起こってくる思考なり感情を単に見てみる。

それが大体の共通するやり方な訳です。

マインドフルネスっていうのは、まず呼吸に集中した後、そのまんまにリラックスして
単に思考やら感情をなんとかせずにただ気づいてるみるー。みたいな感じらしいんですけどね。

さまざまな瞑想では、それが、マントラだったり、どこかの感覚に集中する事だったり、カネの音だったり、はたまたブザーの音に集中するといったものもあります。

でも、なんていうかやり方や方法論は別に重要じゃ無いんですよね。
なので方法論に対して大袈裟な観念を持ち込まなくても良いんです。
伝統だとか、マスターの奥義とかね。そういう解釈って邪魔になりますんでねー。

 

ま、瞑想についてはこの辺にしておいて、
悟りっていうのも、別に何かが何かになるっていうわけじゃ無く、
単なるそのまんまっていうことなんですよねー。

言い方、呼び方に何か意味があるわけじゃありません。
「それそのもの」でも良いですし、
神だったり、宇宙霊だったり、空だったり、ワンネスだったり、非二元だったり。
言い方に意味はないんですよねん。

そして言葉で表現される、これらのすべてもまた、観念なんです。

あるのは私とさえ呼べない「それ」だけなんです。
そして「それ」とは、あなたが今感じてるあなた自身の存在感そのものです。

存在感、その存在だけは物心つく前からありましたし常にあるものです。
この存在がありとあらゆるものに気づくわけでして、
同時にその気づいたものと存在は分離されておらず、ひとつなんです。

ひとつだからそれはもうワンネスですし、全てですから分離のない非二元でもあるわけです。

これを後付けで私と解釈する事で、この私という解釈から、私とそれ以外という分離の解釈も同時にやっているという事なんです。

あるのは存在、気づきだけですが、それを私と解釈する事で、全てであるそれそのもの以外に未知なる何かがあるというような解釈を生んでいるんですよねー。

でね。
この解釈があると、「私はいない」なんて聞くと、まるで自分が感じてるこの存在の全てが無いってこと?
みたいな誤解も生んだりするわけです。

でもそうじゃなくて、存在そのものは、私ですらなく、またそれは存在と呼ぶ何かですらなく、名付けて定義づけできるようなものでもないんですよねー。
そんな「それ」だけがあるわけです。

解釈というものの手を借りなくても良いんですよね。
すると解釈から自由になれるんです。
解釈を追い求めるのが探求であって、この探求の終わりが、解釈から自由になるという事なんですよねー。
そしてそこに残るのは、「それ」だけやというわけです。

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