Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分は自分を放棄できませんよ。

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自分が自分を解放することはできません。
この自分っちゅうのは、
エゴと言われたり、思考と言われたり、
自我と言われたり、はたまたカルマなんて言われてたりします。

よく言われているのは、
それらから解放されるには、
これらを滅却したらイイ!
なんてねー。言われてたりもするわけですがね。

自分が自分を消せるはずないですやんってことなんですよねん。

自分が消えた自分て。
じゃあ、その「自分が消えた自分」は誰やねんっちゅうことになりますからねぇ。

私がいない自分になるっちゅうのも変な話ですしねー。
まあつまり、自分を消そうとするのは無理でっせっちゅう話なんです。

 

ただ、変な話、そういった自分を消そうとはせず、単に認めてあげますと、
自分はおらんやん!ってなことが明らかになります。

認めてあげるというのは、今を受け入れるっちゅうことですね。
今を許してあげるっちゅうことです。

許すというのは、「もうええで!」ということです。
つまり「もうええ!」ということですので、引っかかりがなくなっちゃうわけです。
そうなりますと、もう思考が続きのストーリーを描くことができなくなるんですよねん。
チャンチャン♪
ってことです。
それが許しなんですね。

自分という観念もある種のストーリーです。
誕生と消滅っていうのもストーリーです。
時間もストーリーなら、主体と客体、そして原因と結果もストーリーなんです。

許して、チャンチャン♪ってことにしてあげますと、そのストーリーも続きを紡ぐことがなくなりますので、もう何でもない、分離のない意識だけが残ります。

そこで気づくのが、主体と客体を作り上げてストーリーを作ってたということなんですよね。
しかも、それは勝手に起こってますので、もう起こらせてあげてたら良いってことでもあるんです。

ここちょっとミソなんですけど、分離のない意識とか聞いちゃうと、分離のない意識が真実で、ストーリーが偽物である。といったような観念が出てきがちなんですけどね。

ストーリーが誤りで、分離のない意識が真実というわけですらなく、
どちらも同じ1つのもの。全て。
そしてその全てしかない。
ということなんですよねー。
ちとややこしいですかね。

でも、このややこしいことを理解するでもなく、チャンチャン♪という許しに溶け込んであげると、勝手にその理解の方からやってきてくれますのでね。
なにを型にはめることにこだわっとるんや!といった、こだわりだった探求のエネルギーってやつを見ることで、そのエネルギーも行き場を失っちゃうって感じなんですよね。
「それ」は言葉での理解ではなく、言葉を超えた、そして言葉にすらならないシンプルさとしてやってきてくれます。

なのでねー。べつに自分という何かを消滅させなくて良いんですよね。
だって、消滅って無理ゲーですのでねー。

許してあげちゃうと、私というのも1つの観念として起こっては消えていくもんとなります。
今のままで、そのままで許されちゃうんですよねん。
許さん!と思ってても、それすら許されとるっていうことなんです。

何もない中で全てが起こってるわけです。
時間もなく、運命もなく、自由意志もなく、自分すらないなかで、
全てが起こってるんですよねん。

でね、この起こってるのを見るものと対象となってる見られるものっていうのも同じものやったんです。

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