Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それとは、なんでもないもの

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「それ」とはなんなの?
って聞かれちゃうと、なんでもないもの。ともいえますし、
全てともいえますし、
言葉では表現できないものともいえますし、
そのまんまとも言えちゃいますねー。

ま、こうやって言えるものの中に正解があるわけでもないんですけどね。

うん。
ややこしいですよね。

「それ」を体験したら自分で分かるもんなんだろうか?
だとしたら私はまだわかっていないのかも知れない。
って思われる方もおられるかも知れません。

 

でも、わかるというよりは、「わかる・わからない」のこだわりに気づくっていうことなんですよねん。
これが単なるこだわりに過ぎなくて、そのこだわりはなんら重要ではないっちゅうことがわかるわけです。

つまりは、わからんでもええんや。
ということに落ち着いちゃいますねー。

「それ」とはなんでもないもの。と言われるのは、
わからんでええものということです。

つまり、言葉で指し示されたものではない。
何かではないものということですので、
なんでもないものと言われとるわけです。

「それ」とは全てであるというのも、
分離されたものじゃないということを言われているわけでして、
また、
言葉で表現できないというのは、言葉では表現不能な難しいことということじゃなく、
言葉で指し示しちゃうと「何か」になってしまいますが、
そういった指し示されたものじゃない。ということですね。

これは、言葉や概念、観念に縛られたものじゃないということになりますし、
また、そういったものに縛られる必要ってないんだよねー。
ということでもあります。

どうしても僕らが持っている何かを特定するというクセ。
その特定によって、ありとあらゆるものが分離され整理されているわけですが、
同時にその特定の中に縛られてたりするんですよねん。

でも、実際に実体として縛られているわけじゃなく、
イメージの中でそう限定しているわけですが、
その限定に必ずしも縛られる必要はないという気づきが、その縛られたイメージからの解放だというわけなんです。

そして、解放されたら何かから自由になるのか?というと、最初っから実体としては縛られてさえいなかったことの気づきなんだというわけです。

そのイメージの観念が、
生死の観念。
人生があるという観念。
時間があるという観念。
そして、分離があるという観念なんですねー。

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