Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんの倒し方と探求の終わり

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世界は意識というただ一本の糸で編まれたタペストリーのようなものだ。
そのタペストリーは様々な変化を表現すると同時に意識そのものでもある。
意識であるがゆえにその表現の中に全てである意識を自分という観念として閉じ込めるフリをすることもできちゃうわけですね。

はい。
お早うございます。
オサレな表現をしようとして盛大にずっこけてるタクさんです。

ま、タペストリーだの、糸だの意識だのは置いといて、
今日は自我ちゃんの倒し方について書いてみよっかなーとおもいます。

よくねー。
自我を滅却せよ。
自我とはカルマ。このカルマから解放されることが解脱である。
みたいなこと言われてたりするやないですか。

でね。
僕も質問をよくされるんですけど、
「やっぱりまだ思考に巻き込まれちゃうんです。」
「不安がまだ去ってくれないんですー。」
みたいな質問も多いんですよねー。

とあるスピ系では、自我やエゴがどうも存在したらあかんことになってたりするんですよね。
で、どんだけお金と時間を使って、もうそろそろ卒業してもええんちゃうん?
って思ったとしても先生にこう言われちゃうわけです。

「でもあなたにはまだ、エゴが残ってますよね?」
ゆーてねー。

まるでこの修行を続けたらそのエゴが完全に取り除かれるかのような言い方でね。

いやいやいや、元々無いもんを滅却できるわけありませんからねぇ。
単に名もないモノを勝手に定義づけしとるだけですので、気づくべきは、そのエゴは勝手につけられた定義に過ぎないっちゅうことなんですよねー。

あ、質問とかメッセージは
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さてさて、
例えば
「不安やら悲しみやらに巻き込まれてるんですー」ってね。質問を聞いた時、
僕は、そう言わはるけど、気づいてますやんって思うんですよねー。

気づくっていうのはその様子を観察してますやん。ってことなんですけどね。
ちゃんとその様子を観察できてるからこそ、巻き込まれてるって言ってはるわけでしてね。
で、同時にその様子を見てるってことは、
もうそれ、景色ですやん。って思うわけです。

景色だったら別にいいですやーん。って思ったりするわけです。

だってその景色である思いが殴りかかって来るわけでもないですしね。
外に降る雨を見たところで濡れるわけないですやんってことなんですよね。

まあでも、こういった自我を倒したい!滅却したい!って言う思いもあると思うんですよ。

いわゆる修行ってなやつも、滝に打たれたり、深い瞑想に入ってとかいうやつも、
それって一所懸命、思考やらなんやらを追い出そうとるんやと思うんです。
追い出すことによって自我ちゃんを滅却し、自我ちゃんを倒そうとしてるって感じなんですかねー。

でもね。
それでは自我ちゃんを倒せないんですよね。
もちろん一瞬、自我ちゃんが抜けるような体験はあるかもしれませんけど、
よっしゃ体験したぞ!と思った瞬間、もう自我ちゃんと一体化してたりしますからねー。

そういうのもオモロイならオモロく楽しんだら良いんですが、苦労して、例えば悟りを手に入れよう、自由を手に入れようとしているのだとしたら、今すぐ手に入れたら良いんですよねん。苦労はいりませんので。

でね。僕のオススメの方法なんですが、
それはもう自我ちゃんを目一杯認めてあげることなんです。
自我ちゃんっぽい動きを見つけたら、もうチュッチュして可愛がってあげる。

ムツゴロウさんが動物にするかのように可愛がってあげるんです。
「よーしよしよし、しゃっしゃっしゃ!」ってな感じでね。

もう積極的にここにいてええでーって許してあげるわけです。

だってねぇ。
そううった自我ちゃんがあること。それがもう「それ」そのものなんですよねん。

これを追いやろうとする事の方が実は分離の観念を強化することやったりするわけなんですねー。
今じゃダメだ!と今にいることを許してないっていうね。

そのまんまの「あるがまま」なんですよね。
なので、自我ちゃんがある事含めて「あるがまま」なんです。

追いやろうとする事が「あるがまま」を認めずに、他の別の場所を探す探求やったと言うワケなんですよね。

それを一所懸命頑張ったって、探求は終わりません。
今を否定することで、今を受け入れようとしてる。
っていう矛盾を生じさせてしもてますから、どこまでいっても堂々巡りなんですよねん。

なので、自我ちゃんをそのまんま認めてあげることをオススメします。
チュッチュしてあげるんです。

するとね。今までの不快感の原因はこの自我ちゃんと呼んでいたものにあるわけじゃなく、抵抗感の方にあった事が見えてきます。
今に対する抵抗です。それが苦の原因やったんですよね。

自我的な動きの方には全く足りないものも、アカンこともないんですよねー。

その事がチュッチュしてあげる事で、明らかになるんです。
するとねー、もう探求の必要性が失せるんですよね。
それが、探求の終わりやと言うわけなんです。

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