気づきの意識。
みたいに言われとる存在があります。
それは真我と表現されたりもしております。
今日はこの辺について書いてみよっかなーと思います。
思考とか感情、そして身体って分かれてるわけじゃなくて、なんていうか一個のもんなんですよね。
感情が湧き上がると同時に身体も反応しますし、そして、その感情に従って思考が働きます。
そしてその思考が作り出したストーリーに対してまた感情は反応しますし、感情が反応したらまた、身体も同時に反応します。
でね。
そういったもんが起こってるだけっちゅうことなんですけど、
やっぱり感情や思考が起こってたらそれに気づきますよねぇ?
気づいてるからこそ自分は怒ってるっていうことがわかりますし。
単なる気づきっちゅうもんがあるんですよね。
でね。
その気づきが感情やら身体の感覚を見てるわけですけどね。
見てるうちにガッチャーンって同化するんですよね。
するとね。その感情やその身体の感覚っていうのは、
自分の感情!
自分の身体!
みたいな信念っていうか観念っていうか。
そういうもんになるんです。
いわゆる自我ちゃんっちゅうやつですね。
そうなると身体も思考も感情も自分の所有しているもの。
みたいな感覚に陥るんです。
なので、
ヤダ、、、こんなハレンチなコトを考えて、、、。アタシったら。。。
みたいな罪悪感?みたいなものも生まれるわけです。
はぁー。私ってばやな性格だわ。あの人のこと、あんなに嫌いになるなんて、、、。
みたいな罪悪感もそうかもしれませんね。
で、身体や感情や思考の持ち主である自分がいて、その自分はまた、持ち物である身体や感情や思考によって価値が変わるっていうなんていうか矛盾するような観念を持っているわけです。
身体は自分であり、同時に自分の持ち物でもあり、感情や思考もまた同様に自分であり、同時に自分の持ち物であるっていう矛盾した感覚ですねー。
ま、それ自体、変ですし、ホンマは自分っておらんのとちゃうんか?
っちゅうことなんですけどね。
でもまずは、身体や思いや感情がね。自分やないっちゅうのを見抜くには、
単に見てみたら良いんですよね。
ワシはこういうコトを思っておる。という思いも、
ワシは今こんな感情を感じておる。っちゅう感覚も見れますよね。
見れる。
つまり気づいているっちゅうことは、感情や思いや身体は自分とは違うっちゅうことです。
気づいてはいるけど、その気づきが感情や思考などにべったりと同化しとっただけで、
「あ、みれるんやん!」
ってなことがわかると、そこに、自分と感情や思考との距離がありますからねー。
つまり、気づきである意識が身体や感情にべったりひっついてる状態。
それが自我ちゃんやったというわけで、自我ちゃんという何かがあるというわけじゃないんですよねん。
でね。
単に見てあげますと、感情や思考は自分ではないし、そこに自分っていうものはいないっていうことも見えてきます。
自分が感情を持ってると思ってたけど、感情を掴んでない時、そこに自分はおらんのですよね。
あらゆることが起こってますし、それに気づいてますけど、その気づいてる意識があるだけってことなんです。
気づきだけがあるっちゅう感じですね。
でね。
結構この辺誤解されやすいところやと思うんですけど、
その気づきこそが真の自分。真我なのだ!
自我から離れて真我にあろう。
っていう考え方なんですがね。
ホントは気づきしかないんですよね。
気づきが同化するときに自我ちゃんっぽくなるだけで、それも気づきなんですよねー。
で、その気づきの自分という自分がいるわけでもないんです。
気づきの自分っていう状態。
全てを俯瞰して見てる自分。
気づいている自分。
その自分にもまだ少し分離感が残ってるんです。
この自分っていうのもまた、いないんです。
その分離のなさが明らかにされちゃいますと、
あるのは気づきだけ。
そしてその気づきとあらゆる起こっていることにも距離がなくなるんです。
起こってることと気づきもいっしょなんですねー。
ま、ちょっと分離のなさについてはややこしいかもしれませんね。
シンプルすぎて逆に文字にするとややこしいわっ!ってなことになっちゃうんですよね。
なんていうか、空気を空気という言葉を使わずに説明するとややこしくなるって感じに似てるかもしれません。
ま、この辺はまた書いて見たいと思います〜♪
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