Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」への理解

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それへの理解っちゅうのは、理解をするもんやなくてですねー。
どっちかというと、ほっといたら向こうから理解がやってくるっていう感じなんです。

もっと正確に言うたら、やってくるんやなくて、やって来るとおもてたこの中心点がね。
なくなってというか、元からないわけなんですが、その事が思い出されて、
その理解と溶け込むんですね。

ま、もっと厳密にゆーたら、溶け込むっちゅうよりは、中心点があらへん事が明らかになり、
それしかないもんがあらわになって来るから、溶け込むような感覚を味わうこともあるっちゅう事なんですけどね。

 

理解をするもんやないっちゅうことはね。

わからんでええっちゅうことなんです。

わからんままで、「わからん」がまさに許される時。

わらんままでええんやん!っていう事が許される時。そのまんまでええんやーんっていう理解が訪れるんです。

この理解っていうのは、
「私はいなくて、すべてと私は一緒でそこに分離はないんだ」
「私は生まれたこともなく死ぬこともないんだ!」

みたいなね。
よく言われている言葉が理解として現れて来るというよりは、

わからんままのそのまんまに溶け込んだ感じなんです。

正直それは言葉にはならないんですよねー。

で、ま、それをあえて言葉にしたらまあそんな表現になるかもねぇ。
もちろん、あ・え・てでしかないけどねー。

みたいな感じなんですよねー。

わからんが許されると、それはもう安堵なんです。

その安堵は何の説明もいらんのですよね。

知らんがな。が完璧に許されるんです。

ファーってね。

めっちゃ肯定的な「知らんがな」に包まれるんですねん。

理解せんでもええ中で、何に乗っかってようが
それが起こってるならそれでええんですよねー。

それじゃいかーん!という思いが起こっても、
それもまた、それでええんです。

そうなんやー。
それがいかーんっていうのも許しちゃうと、
いかーんじゃなくなっちゃうのねー。

いかん!っちゅうことを解決すれば良しとなるんやと思ってたけど、
そっかー。そうやって良しとするストーリーにハマってたんやねー。
良しにする必要も無けりゃ、良しも悪しもあらへんやんって言う事ですからね。

そして、それにハマってても良いって許されたら、
それもまた良しっちゅうことになるんやねー、なんて理解もまた当たり前にそこにあるわけなんです。

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