Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

誤りを正すという方向性のクセ

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世界は分離した自己から生まれたストーリーであって、その分離した自己という誤りの観念から生じている。

本来のあなたは宇宙そのものであり、分離という観念がその本来さを見失わせている。

ってねー。

そういう話を聞いちゃうと、やっぱり正したくなりますよねぇ。
自分を。

つまり、このストーリーを見抜く自分になろうとしますし、
本来の自分で生きられるようになろうとしちゃいますよねん。

これがねー。
パラドックスになっとるんですよねん。

 

もしね。
それを正そうとすることが正解への道なんだったら、
ちゃんとそれを知るカリキュラムがそろそろ出来上がって、
1つの学問として確立されとってもおかしくないんですけどね。

禅の修行とかがそれに当たるんかもしれないんですけど、
ま、そういった修行を長くしたから悟りに近い人になるとか、
そういうことじゃないんですよねー。

つまり、何かを正していくっちゅうところね。
そこでもう最初のボタンのかけ違いが始まっとるんですねー。

こちらが、誤り。
こちらが、正しい。

っていうのがすでにもう分離の始まりですのでね。

じゃあ、修行したらあかんのか?
っていうわけでもなく、それが起こってるのならそれでええわけです。

それもまた、
こちらが正しい、こちらが誤りっていう分離になっちゃいますからねー。

でね。
分離があかんのか?というのもまたそういうわけじゃなく、
分離が誤り、分離のなさが正しい。
っちゅう考え方もまた分離やん♪ってなるわけです。

言葉で表現されると
どうしても半分はウソになりますのでねー。

あんまり言葉を追う必要もなく、言葉の中に真理を探さなくてもええんですよねん。

言葉っていうのは何かを限定しちゃいますので、
もう言葉も置いておいて、判断も限定もないそのまんまにしてみる。
そのそのまんまにあってみたらええんですよねん。

そのまんまでおったら何かええことがあるのか?
なんて思いも起こってくるかもしれません。

でねー。そんな思いも起こるわけですが、
まあ、別にええことがあるのか?ないのか?なんてねー。
そんなもんに制限されるのって、なんかダルいやん。

っちゅうことなんです。

ええも悪いもないんですが、それをわかって良くなろうって思ってたら、
そりゃまだ、ええ悪い信仰を信仰しとるやん!っちゅうことになりますからねー。

なので、もうそういう思いもまた起こるよねー。
起こってるよねー。
それでええよねー。

バカボンのパパのように「これでいいのだ!」
ゆーてねー。

見てあげたらええんですよね。

自分の中にあるはずの誤りを正していこう。っていうよりは、

誤りなんてないはずのものを誤りとして見ているかもしれないから、まずは良いよねーって、そのまんまをまず許してあげてみると良いと思うんです。

許しちゃえば許しちゃうほど、判断の必要性が失われて生き、判断を通さないそのまんまが現れるっちゅう寸法なんですよねん。

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