Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無防備サイコー!

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無防備さってどうしても危なっかしく感じちゃいますよね。
無防備さとは無垢さでもあります。
無垢なのもまた危なっかしいですよね。
大丈夫かいな?騙されたりせーへんかいな!
なーんて思ったりしてね。

でも、僕らは完全に無防備な状態で生まれてきて、そして無防備じゃない何かを自分で築き上げてきたのか?と言いますと、実は別に何も手に入れてさえいないんですよねん。

自分がやった!って思ってることも後付けでそう解釈してるだけですのでねー。

 

んなことはないで!
ちゃんといろんな「生きる術」を手に入れてきとるで!
って思ったりするもんですけど、それらもぜーんぶ、記憶のイメージの中にあるものです。
その記憶に実体があるわけでもなく一切の記憶を一旦置いておきますと、
無垢さが残ります。
記憶っていうのは実体がないばかりか、結構曖昧です。
しかも記憶を呼び起こすのも誰かがやっとるわけじゃなく、今の状況によって都度再構成されとるわけですので、実は思ってるほどあてになるもんじゃないんですよねん。

というわけで、ちょっと強引に感じるかもしれませんが、
生まれた時の無防備さ、無垢さは失われてはおらず、なんも変わってないんです。

「あら、私ったら、もう無垢な心は失ったんだわ。オヨヨヨヨン♪」
なんてことはありません。失われていません。

これは無垢ではない!という信念が後から作られとるだけです。

無防備についても、イメージの中でだけ色々と防御策を手に入れた気にはなってますが、
準備万端だぜ!って思ってても、一寸先のことは誰もわからんわけです。

ずっと無防備だったし、これからも無防備なんです。
これをこうしておいたら安心だぜ!っていうイメージを抱いてるだけでねー。
それも思考の中でだけ何かを掴んで安心に近づいている気がしてるだけなんですね。

そんなふうに聞いちゃうと、
あかんやん!
じゃあどうやって備えといたらええのん?

なんて思っちゃったりしますけど、今までもそうやったんやから今まで通りでいいんですよね。

ややこしいですが、それは準備をしないという事じゃなく、必要ならそれが起こりますし、今までも必要なことがちゃんと起こってたっちゅうことです。

それ以上でもそれ以下でもないって感じですね。

恐怖や不安、そして罪悪感も、ちゃんと備えとかなあかんのとちゃうやろか?
なんでちゃんと備えておかんかったんやろう?
という思いから来ておりますが、備えた先に安心があるわけでもなく、
そこが結構大きな誤解となって、苦では無いものを苦と捉えてたりするんやないかなーって思います。

備えなあかん!っていう観念からの解放が、
ノリノリに乗っかるっちゅう事です。
ノリノリに乗っかるのに理由も必要ないんですよねん。

で、ノリノリに何かに囚われるならそれもまたそれで良いんです。
道に誤りも正しさもありません。

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