Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

虚像の見抜きからくるパラドックス

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もしかしたら、自分ってそんなに実力もないし、カシコでもないのかもしれない。
そんな、足りない自分を見るのって勇気がいりますよね。

さて自分はどれほどのものなのか、、、、。
なんて考えだすと、足りないもんが山ほど出てくるやん!
うひゃー!
ってなもんでねー。

でも、この自分の足りないを直視することにより、その足りないのウソさも明らかになったりもするんですよねん。

 

直視っていうのは、みるってことですけど、
この足りなさっていうのは、何かしらのルールを当てはめて、
そのルール上で足りないということを演出してるにすぎないわけであって、
いつしか、そこに恐怖感をも伴って、まるで「いないいないお化け」のように無いものをあるように見せかけてただけやったりしてね。

え?足りないもんって全部イメージなん?虚像なん?

ありゃ?
わしゃ今までこの虚像を前提として右往左往しとっただけなんかいな!
ってなことが見えてくるんですよね。

足りないもんなんてなかったのか、全部虚像か、、、。
ってなことが明らかになってきますと、もうそこに分離はありませんので、
自分という存在すら虚像の一部でしかなかったことが明らかになってくるわけです。

するとねー。
ここで、1つのパラドックスにぶち当たるわけです。

それは、
やっぱりこの虚像をなんとか見抜ける自分にならなきゃイカンのか?
この虚像に巻き込まれているうちはまだまだ自分は足りないのか?
みたいな思いが出てきてしまうっていうパラドックスなんですけどね。

これもまた、虚像を大前提にした単なる考えにすぎないんですよね。

この虚像を作り出すというのは、人の習性のようなものでして、
習性として現れているあらゆる表現も自然現象の一部でしかなく、
誰かが何かをしているわけじゃ無いんです。

そんな自然現象の中の一部として、
人は、
あらゆる不安に対処しなければ!
と頭の中のイメージの中でおしゃべりを繰り返しとるわけです。

そのイメージの中に行為者としての自分というイメージもあるわけですね。

この思考を追い出そうとしてみたところで、
それは外に吹く風自身が風を止めようとするようなもので、
ま、なんていうか無理ゲーなんですよねん。

でも、そういった現象を単に見て、そしてそれごと受け入れてあげますとね。
そこに抵抗は無くなってくるんです。

抵抗がなくなってきますと、「あるがまま」が姿を現してきます。

抵抗とは、あるがままをあるがままとして認めようとしてないという抵抗だったんですね。
そして、この抵抗によって起こる摩擦が苦として生じていたわけです。

ただ、実際はその抵抗もその摩擦もイメージ上で起こってるものですので、
実体はなく、誰も何も損なわれてないんです。

なので、苦も実体としては生じてすらいなかったわけなんです。

にゃははは。
言葉にすると、実にややこしいですねー。

ま、簡単に言うとわかろうとせんでええっちゅうことですね。
わからんままにリラックスしてみたら良いんですよねん。

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