「天道是か非か」という言葉は僕が好きな中国の歴史家、司馬遷(しばせん)の言葉です。
このおっちゃんね。
天の道に従うべき!みたいな言葉があるけど、ホンマにそうなんやろか?
天に背くような人も結構幸せな人生送っとるし、天に従った真っ当な生き方をしてたのに無残な運命を迎えた人もおるで、、、。
ってなことをテーマに歴史書を書かはった古代中国のおっちゃんです。
僕がこの人の本を読んだのは学生の頃やったんですが、なんていうか、数千年前の、まだ日本に卑弥呼が誕生するより遥か以前の人やというのに、なんていうか心情はとっても共感できるなぁーって感じまして、なんかすごく身近に感じたんですよねー。まるで電話したら出てくれはるんとちゃうやろか?
って思うくらい。。。
人って昔から同じような悩みを抱えてるのかもしれないなー。
なーんて感心して、興味を持ったんです。
そんな経験からか、結構古代史って好きなんですよね。
古代中国史を扱った本や映画やドラマはあらかた見尽くしてしまったので、最近は古代ローマモノにハマっております。
まあ、それはさておき、
天が見ている。みたいな考え方や教えって結構昔からあったんでしょうね。
老子の言葉で、
「天道無親、常与善人」
(天道は親なし、常に善人に与す。)
なんて言葉があります。
天は常に僕らを見てますよ。そしてえこひいきなんてしませんし、善人の味方をしてますよー。
ってな感じに意味づけされております。
なので、天の道に沿った生き方をしたらええねん!天の道に従っとったら間違いないで!
なんて教えになっとるんやと思うんですけど、
僕はこの天の道というのは、
いわゆる道徳的に正しい道というよりは、
たんなる「あるがまま」ってことなんやろうなぁ。
大自然のそのままの自然。どんな考えのレッテルも貼ってないそのまんま。
その表現にノリノリでおったらええんやで!
っていうのが天の道なんちゃうのん?と思ったりもしてます。
せやから、これは間違っているのか?正しいのか?と自身に問うて見て悩むよりは、
オモロイのか?おもんないのか?
と単純に問うて見たらええんとちゃうかな?と思うんです。
オモロイ!と思うのなら、多分それは天の道に沿ってるんだと思うんです。
そのオモロイ!とワクワク出てきとる感じがまさに「そのまんま」である天の表現であって、その証拠にそれを抑え込むと反発して苦になりますからねー。
僕らってね。
「自分」という殻に閉じこもりがちで、
その「自分という観念」を意識すればするほど、
そして、それが強固になればなるほど、どうしても悩みや不安って増えてくるんですよね。
そんな時に、ちょっと自分を置いておいて、視点を別のところに移してみたらええんとちゃう?
という提案が、「天の道」という教えなんやと思うです。
ああでもない、こうでもない!
あかんエライコッチャ!
これでええんか!やばいんとちゃうんか??
ってな思いって、全部、「自分」が安心なのか?
ということについての心配だったりするんですよねん。
そして、一旦気になりだすと、もう連鎖的にいろんなことが心配になっちゃったりするんですよねー。
そんな時に、
まーまー、ちょっと落ち着いて、
それよりも何がオモロイか考えてみようや!
妙な損得なんていう幻想は置いておいてさー。
ってね。
ゆうてくれはるのが、天の道、天の声っちゅうわけですね。
ああ、考えに巻き込まれてるなぁー。なーんて感じた時は、
「オモロイことを問う!」
をやってみて、天の声を聞いてみてはいかがでしょうか?
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