Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

陰と陽

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おはようございます。タクさんです。

僕の名前なんですけどね。拓と書くわけなんですが、子供の頃って親になんでこの名前にしたん?とか聞いたりするやないですか。

で、僕も聞いたことがあるんですよ。
「なんで拓って名前にしたん?」ゆーてねー。
ほなら、うちのオカンは、

「セイメイ神社で決めてもらったんや」って言うんです。

その時思ったのが、セイメイジンジャ???

姓名神社ってことか?

なんやその神社。なんていうか浅はかというか、しょうもない感じの神社やなぁ、、、。
そんなアホみたいな神社でつけた名前で大丈夫なんかいな!

なーんて思ったわけですが、のちにその神社は、

姓名(セイメイ)神社ではなく、清明神社やということがわかりました。

清明とは、安倍晴明(あべのせいめい)という人の名前ですね。
陰陽師として有名な昔の人です。その人ゆかりの神社やったんです。

で、なんか、そうやって聞くとカッコエエなぁ、、、。

と思い直したんですよね。
「フッ。。。我は式神なり。。。」

なんて中二病的な妄想をしちゃったりして。。。

と、言うわけで、陰陽師とは全然関係はないんですが、

今日は陰と陽をテーマに書いてみたいと思います。

 

陰と陽は別々に存在することは出来ません。

だから一つなんです。

陰に見えたり、陽に見えたりするのは錯覚のようなものなんですよね。

ホントは両方見えてるんですが、どっちかしかないという錯覚が起こっとるんですよね。

その錯覚が分離の観念を生み出しております。
でも、絶対に分かつことはできませんので、無理やりどっちかを無いものと勝手にみなしとるだけなんです。
掴んだものだけを有ると見なしておるだけなんですよねー。

例え話が下手な僕ですが、あえて例えてみるとすると、
半紙の上に、筆で書かれた書があるとしますよね。
すると目が行くのはどうしても書かれた黒い部分。

つまり書の部分に目が行きますよね。
でも、これ、白の半紙があってこそ成り立っとるわけじゃ無いですか。

その白と黒に境界線を脳内で引いて、黒の部分と白の部分として、そして、白を無視して、書の方だけを見てるわけです。

つまり、書を掴み取って、半紙の部分も見えてるんですけど、無いことにしてるんですよね。

でも、この半紙の白い部分と黒い部分って決して分けることはできないわけで、分けちゃうとするならどっちも成り立たなくなるんですよね。

うーん。わかってますよ!例えがややこしいっちゅうことは、、、。

もう一個例えてみるとすると、

光だけが存在するのって無理やないですか。影があるから光があるわけでして、光があるから影があるわけで、、、。
どっちか一個だけってあり得ないじゃないやないですか。
光を見ようとするのは、同時に影を見とるっちゅうことになるんですよね。

ほら、デッサンなんかするときは、影を描くことで光を表現しますよね。
つまりあれも分離してない一個しかないんですよ。本来は。

一個っていうのも変なんですけど、分離って無いんですよね。ほんとのところ。
それと一緒で、陰と陽っていうのも、分けられないんですよね。
陰陽のマークってありますよねぇ?こんなやつです。

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これ、宇宙全体を表現しとるんやと思うんですよ。

つまりそれは全てであり、ありのままですね。

で、これって全ては陰と陽で出来ているみたいな解釈もあるらしいんですが、

僕の勝手な感覚では、陰と陽は、分けられへんねんで!

宇宙の全ては分けることなんてできへんのやでー!

分離しているようにみえて全体は一個ですねんでー!っていうのを表現しとるんちゃうんか!って思うんですよね。

だからなんかパツッと白と黒が分かれてるような図じゃなくて、
白と黒が混じり合ったようなマークになっとるんちゃうんかってね。

どっちかには割り切れへんのやでー!ってね。

そんな事をゆうてるように見えます。

で、分けられないっちゅうことは、陰も陽もあらへんがな。
っちゅうことになります。

どっちでも無いから掴み取ることは出来ないわけで、掴めないから何も無いように見えて、同時に全てがあるわけです。
掴んじゃうとどっちかになりますが、全てであるそれそのものは見失われるんですね。掴まないでいると全てが残るっちゅう寸法です。
掴んでませんので、何もあらへんし、同時に材料は全部あるっちゅうわけです。

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