Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人のアタマの中以外は淡々とあるがままやったりして。

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Facebookとかツイッターとかで、テンション高めのメッセージとか読んでると、
たまにちょっとプッて笑っちゃうんですよねん。
何が面白いのかと言いますと、もちろん僕もそうやねんけど、
メッセージはこんなにテンション高いのに、本人がそのメッセージを打ち込んでる様子って、ホントはメッチャ「素」なんやろなー。なんて思ったりしてね。
その落差を想像してワロてしまうんです。

というわけで、おはようございます。タクさんです。
僕も今、カフェで若干ニヤつきながらも無表情でこの文章を書いていますよん。
心持ちはウキウキしとるんですけどねー。

 

こういう話って、なんか何かをはぐらかしているような感じを受ける方もおられるかもしれません。
何を聞いてもわけわからんやないか!
ってねー。
そういう時ってちょっと心苦しい感じもするわけですが、もちろんはぐらかしてやろうと思ってるわけじゃあございません。

わけがわからんのってある意味正解であって当然なんですよねん。

「それ」ってわかる話じゃありませんので、どうやってもわけわからん!ってなってくるんです。

もうどうにもわけわからん!っていうのはある種チャンスと言えるのかもしれません。

わけがわからんけど、なんとかわかろうとする。
その働きの根源を見てみたら良いんです。

その根源に何かがあるわけじゃないんですが、わかろうとする働きがあることをみてみたら良いんですよねん。

そして、その働きの実体のなさもみてみると面白いかもしれません。

目の前の空間は何事もないように変わらずに佇んでいます。
シラーっと佇んでます。
そんな中、わからんとどうにも落ち着かんで!退屈はイヤや!みたいな働きが、
何かをつかもうとしているように見えるかもしれません。
その働きは一見強烈に感じるかもしれませんが、実体はありませんので、
正に
「めっちゃテンション高い文章をSNSに打ち込んでるのに、見た目はメッチャ無表情。」
みたいな感じでね。実は起こってるようでなーんも起こってなかったりしてね。

なんかこの様子をプッと笑えたらめっけもんかもです。

何かを掴んだ気になっているのも同様で、誰も何も掴んですらいないんです。

何かを掴んだら何者かになれるという思い込みも的外れやったんですよねん。

そして、手放そうと頑張っていた観念も、実体のない蜃気楼の様なもんだったんです。
二元の現象界と非二元という別々の世界があるわけでもなく、
特別な人と普通の人がいるわけでもなく、
覚者と凡人がいるわけでもないんです。

だから、色と空があるわけじゃなく、
それらは分離すらしてませんので、色即是空、空即是色だというわけです。

そのまんまで、すでにそれそのものですので、オープンシークレットだというわけですし、
ありのままの真理の体現をブッダだと言うのであれば、みんながブッダなんです。

そして、こういった全ての表現も、単なる言葉のアヤなんですよねー。

物語というのは言葉が紡がれたものですよねぇ。
つまり言葉で構成されたものはすべて物語なんですよねん。

よく、ファッとしたならその中でリラックスすりゃええねん。みたいなことを書いてたりするわけですが、
このファッ!の中には言葉はありません。

言葉の中に何かを探すとしたら、キリなくあらゆる物語が展開されるんですよね。
自分という観念も、
時間も、
人生も、
ありとあらゆる指針も、
全て言葉の中にしか存在せず、その全ては言葉で紡がれた物語やったんです。

このメッセージも、言葉で受け取るとそれは単なる物語となっちゃいます。

あらゆる言葉を一切置いておくと、掴む材料は無くなります。

その中でムホホーンっとリラックスしてみたら良いんです。

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