Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私が消えるというよりは「それ」が私を取り込んできよるんです。

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ほいほいほほほいほい!
というわけで、おはようございます。
タクさんです。

僕ねぇ~。
なんていうか、元来のめんどくさがりなんですよー。

そんなめんどくさがりの僕がよくこのブログは続いとるなぁ。
なんて思うわけですが、
ブログの記事で書いたことは、アップされる頃にはほぼ忘れてたりもします。
で、
ちゃんと整理して書くのはめんどいので、なんていうか、
使う言葉もノリで選んでいるのでバラバラですし、表現しているいわゆる段階?
段階っていうとちょっと語弊がありますが、
まあ、レイヤーって言いますかねー。
それも結構バラバラなんですよね。

なので、
メッセージはよくわからなかったら思いっきりスルーしてくださいねー。
自分の中でファッとなったなら、メッセージじゃなくてそのファっていう自分の中でリラックスしてみてくださいねー。ってゆーたりもしてるわけです。

誰かのことや、誰かの表現を信じるっちゅうのは意味ありません。
信じるとか信じないっていうのは、結局は判断からくる物語が展開してるだけですので、
それはキリがありません。

なので、こういうメッセージに対しては信じる必要はないんですよねん。

で、実際のところは段階なんてもんもなく、あるのは「それ」だけなんですので、
あまり段階っていう事にこだわる必要はないんですが、
今日はあえて段階について書いてみようかと思います。

 

そもそもね。
毎日、のほほーん♪ってしてて、楽しくて、何でも思い通りになってて、、、。
てねー。
そんな毎日なら、こういう話に興味がわくことなんて無いと思うんですよね。

なので、興味がわくという事は、なにかしらの好奇心か、もしくは不自由感とか苦があるんだと思うんです。

それははっきりと理由がある場合もありますし、漠然としたものかもしれません。

そういう場合は、まずは、自分に何かしらの苦があることを見てみないことには始まりませんよね。

でもこれ、結構見逃されやすいんですよねー。

苦なんてあまり見たくもないので、その苦そのものとは向かいあおうとせずに、
すぐにこれを消すにはどうしたら良いんだろう?
みたいな方法論ばっかりをを探究しちゃったりするんです。

それだと、いつまでたっても苦にフタをしてごまかし続けることになっちゃったりするんですよねん。

なので、
どうしようか??
この重苦しさはどこからくるんだ!
どうしたら楽になれるんだ!!
とアタフタするよりは、ちょいと落ち着いて、
まずは「自分が苦しんどるみたいやで?」ってところを見てあげたら良いんです。

あれこれと理由が言葉となって湧き出てくるかもしれませんが、言葉は一切おいておいて、とにかく、何かしらの苦しみが自分にあるっぽいで?って落ち着いて見てみるんです。

それを見てみないことには始まらないですからねー。

でね。
よーく見てみると、その苦には、ある種の観念が原因になっとる。っていうのも見えてくるんです。

その観念を掴んどるから、その観念に沿わないものが「苦」となっとるっちゅうわけですね。

そこまで見てみるんです。

そうやって見てみますとね。その観念へのつかみ取り。すなわち執着。こだわり。
そういった掴もうとするエネルギーっていうかね。
そういうのが何かを掴んどる。っちゅうのも見えてくるんですよねー。

で、もっともーっと見てみますとね。

ちょwwww

その観念も掴もうとしとるエネルギーも全部イメージやんけ!

みたいなね。

そういう動きも観察できることに気づくんです。

なんでもかんでも見れるやんけー!
っていうね。
で、見れるからには、これは風景のようなもんという気づきもあったりします。

こうなるともうめっけもんで大分楽になるんですよねん。

ただ、やっぱりまだ、見てるからには、そこには自分というクセづけといいますか、観念が残っとるんですよねー。

そして、大体はこの静寂と執着を行ったり来たりしちゃったりするわけです。

で、なんとか、この楽な気づきの状態を保とうと頑張っちゃったりしちゃうわけですね。

でも、やっぱりそれも、物語に過ぎないわけです。

つまりね。
ありとあらゆるカルマなりこだわってたなにかが取れ去ったら純粋な自分になる!っていうのもひとつのコンセプトに過ぎないっちゅうわけなんですよねー。
つまりは概念やというわけです。

そんな自分すらおらんわけです。
どこを探してもね。

全てを見ている自分すらも観察できてしまうんですよね。

じゃあ、私はどこにおるねん???って言いますと、おらんわけです。

そもそも、見てると見られているっていう関係性がないんです。
主体と客体なんてなかったわけなんです。

なので、あるのは「それ」だけなんですよねん。

僕らは「それ」を求めていると同時に、「それ」を避けて「ワタシ」という観念の中に逃げ込んでいたんです。

よく「私が消える」「私の終り」みたいな表現があったりするんですけどね。

僕の感覚では、「それ」からは逃れられることはなく、逃れたこともないということを思い知るっていう感じかなーって思います。

私が消えるというよりは「それ」が私を取り込んできよるんです。

最初っから「それ」から逃れられたことはないんやでーって突き付けられるんです。

そうなると、静寂だろうが執着だろうが、私という観念だろうが、目についたウロコだろうが、
それも含めてぜーんぶ「それ」そのものであり、良くも悪くもなく、それでいて、それが好きだろうが嫌いだろうがどっちでもいいってことになるんですよねん。

何者になるわけでもなく最初っから「それ」ですし、
誰かが行為する余地すらなく「それ」しかないんです。

手放す何かがあるわけでもなく、全ては許されています。

嫌いなものを許すでもなく、インナーチャイルドを癒して許してあげるでもなく、
最終的には、「それそのもの」を許してあげる。

っていうか、
許されていたことを突き付けられるんですよねん。

全体であり赦されている。
最初っからそうで、そうじゃなかったこともない。

なので、普遍の愛であり、無条件の愛と表現されたりしとるっちゅうわけです。


段階とか言いましたが、何処かにあると思っていた最終地点はすでに完璧であったこのスタート地点であり、どの段階であってもこのスタート地点から離れたことはなく、全てだったんです。
なので段階すらなかったってことに落ち着くんですよねん。

と言うわけで、ざっと駆け足で書いてみましたが、また機会があれば、もちょっと丁寧に書いてみたいと思います。

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