Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分というものにこだわるとこだわった分だけ不自由になる。そしてそれで全然良いわけで。。。

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生きてるだけで丸儲け!
これはさんまさんの座右の銘だそうで。

娘の名前もこの座右の銘から命名された「いまる」ちゃんですので徹底してますねー。

でもね。
ほんとそうやと思うんですよ。
もうすでにカンストしておるんです。
最初っから100点満点なんですよね。
生まれた時点でね。

もっというと、生きてなくてもすでに丸儲け分は頂いておるわけです。
すでにどうあっても満点なわけです。

満点ですので、あとは何をしても点数が加算されることはないわけです。
好きに楽しめば良いわけですね。

 

修行を楽しく勤しむのもよし、
名声を得たいと頑張るもよし、
寝るもよしでございます。

すべてはおままごとのようなもんです。
加点されないボーナスステージです。

なので、ホント好きにやればええだけなんですけどねー。
でもって、別になーんにもしなくてもべつにいいわけです。
生きてる証を残さなくても、それでも素晴らしい人生なんですよねん。

どんな偉業の達成も、
あやとりが上手というのと同価値です。

満点という意味では同じことなんです。

生と死と人生というものも、ひとつの観念にすぎませんのでフリーなスペースに起こる物語のひとつです。

そんな中で、
自分という観念と、そこから付随する様々な観念を作っていくわけです。
観念は、より良い人生を送るためのノウハウだったりするわけですねん。

この観念が楽しく機能している分には全く問題ないのですが、
そこにこだわりが強く作用すると、その強さの分だけ、観念の範囲に対するこだわりも強くなってきます。
すると、この範囲の中に自分という観念を閉じ込めてしまうんですよねん。

もっとこだわりを強くしていくと、その範囲はどんどんと狭くなってしまいます。
そして、狭くなった分だけ不自由感を感じちゃうんです。

この不自由感があると、今度は自由さを求めちゃったりするわけですが、
その自由さは不自由があってこそ成り立つわけですので、
また余計に、自由へのこだわりをこじらせちゃうことにもなったりして、、、。

つまり何かを得ようとしても、どこかに自由や解放といった何かがあるわけじゃなくて、あるのは作り上げられた範囲だけやったんです。

そしてこの範囲は実体としてあるわけでもなく、観念としてあるだけだったわけです。
つまりはイメージなんです。

観念とは、作り上げられたルールの組み合わせを一つのパッケージにしたものです。
そして、作り上げられた中のルールはいつしか忘れられて、パッケージだけが注目されてるんです。

なので、無意識的に観念は考えるまでもない大前提となってしまっていたりするんですよねん。

まずは、その観念を発見してみないことには、どういう観念があるのかさえ気づかなかったりもするんです。

だからといってその発見に夢中になるのもまた考えもので、
観念の発見はそれはそれで良いようにも見えますが、
まあ、ぶっちゃけキリが無かったりするんですよねー。

そうかこれが観念やったんか!とその時は安心したりもするわけですが、
そのうち、この発見もまた一つの観念になっちゃうみたいなこともあるわけで、
ちょっとしたイタチごっこにもなったりしてねー。

例えば、「そうか!人の顔色を気にしなくても良いんだ!」という発見があったとしても、
そのうち「人の顔色は絶対に気にしない!」みたいなこだわりに変化しちゃったりね。

いわゆる静寂へのこだわりみたいなものも、一つのこだわりなのかもしれませんねー。

なので、癒しのワークも最初は良いかもしれませんけど、いつしかキリがない堂々巡りになっちゃったりもするんです。

なので、ある程度のところで、「もうどっちでもええわ!」ってほっておいたったらええんです。

もう、最初っから100点満点で、ワイがこだわっとる分だけ不自由感を感じたりもするけど、
それだってどっちでも良いんだし、、、。
呑気にリラックスしてましょ。。。
モナカアイスでも食べましょ。。。

ってな具合でねー。

観念も単に観念としてとらえとるだけで、それも含めてそのまんまです。
「ああ、そうかー!」それも含めて、もうすでにそのまんまやったんやーん。
だからもう満点なんですやん!

ってことなんですよねん。

最後ちょっとややこしかったですかね?
今度違う表現で書いてみますね。

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