Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

教えなんて捨てちゃえ!

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昔のえらいお坊さん。
たしか臨済さんやったかなぁ?

その人の名言で
「仏にあったら仏を殺せ!親にあったら親を殺せ!」
っていう言葉があるんですけどね。

これ、
多分、ここで言われてる仏とか親っていうのは、
教えのことやと思うんですよね。

もちろん会って聞いたわけやないので、知りませんけど。。。

仏の教えも親の教えも捨ててしまえ!
ってゆーてはるんやと思うんです。

つまり、
見てきたことや聞いたこと、
今まで覚えた全部を捨ててしまえばええねん!

ってことなんですよね。

それらはデタラメですのでね。
ブルーハーツさんのいう通りです。

 

デタラメというならどこかにデタラメじゃない真実があるのか?
と言いますと、そういうのもないんですけどね。

全てはウソなんですけど、じゃあウソじゃないホントがあるのか?
というとそういうことでもなく、
ウソでもホントでもない在るが在るだけなんですけどね。

どういうことやねーん!ってなるかも知れませんけど、
そもそも、ウソとかホントとか、そういう観念を採用せんでもええやん?
ってことなんですよね。

起こってることってね。
万華鏡の模様のようなものなんです。

絶対に一緒の模様にはならない(多分)起こりの移り変わりなんです。

その模様の一部分をつまみあげて、何かの意味を付け加えたとして、
それを信じていたとしても、それって幻想ですよね?
じゃあ、本当の意味がどこかに在るのか?と言いますと、
そもそも模様に意味はないわけです。

全てに意味はない!なーんて聞きますと、なんかしょんぼりしてしまうかも知れません。
でも、しょんぼりすることはないんです。
だって、意味なんていう無意味なものに縛られなくて良いんですからね!
意味という監獄からの解放なんです!

ヒャッホーイ!と起こってくるダンスに身を任せれば良いんですよね。
それが許されている。意味をつけなくて良いことも許されていたんです!

ウソを排除してホントを採用しなければならない!という観念からも解放されるんです。

意味という杖を失うと、どうにも不安に感じるかも知れませんし、
今まで大事に持っていた意味が必要ない!なんて言われるととっても残念に思うかも知れません。

でもそんな杖を持っていたから自由に踊れへんかったんやんけ!
杖がなくても、実は歩けたんやんけ!ってきづくんです。

クララのように、単に怖かっただけなんです。

大丈夫!ちゃんと立てます。

その時は、僕がハイジばりに、「クララが立った!立ったわぁー!」
って言ってあげます。

なんか話が思いっきり脱線したような気がしますが、

仏の教えも、親の教えも、はたまた非二元の話も、聖者の言葉も
ぜーんぶ捨てたったら良いんです。

何かをつかもうとする衝動を、
「オッホッホッホ!今日も元気ですねぇ」
って、人ごとのように声をかけてあげたら良いんです。

教えも、記憶もなにもかもを手放した時、全てが手の中にあったことが明らかになります。
握っていたから、握られた中しか見えなくなっとったんですね。

何かをつかもうとする衝動を抑える必要もなく、その衝動もまた万華鏡の模様の一部なんですねん。

そして、それを見てるあなたもまた、その万華鏡の素敵な景色そのものなんです。

みるものとみられるものというのが単なる観念だと明らかになる時、
あなたはまぎれもない一連の生命のつながりと一体だったことが思い出されます。

命には分離はありえなく、無機質に見えてたものさえも命そのものだったんですね。

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