Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」が明らかになるともう一切の迷いに煩わらされることはないのか?

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原始仏教なんかではね。
お釈迦さんって、大悟したあともしょっちゅうマーラと出会ってるんですよね。

マーラとは(迷い)のことです。

そう、お釈迦さんの人生も僕らと同じく、迷いの人生やったわけです。

悟ったり、大悟したり、
「それ」が明らかになると、一切の迷いが無くなるのか?
と言いますと、無くなりません。

っていうか、今まで通り一切変わらず、迷いは起こるんです。

ただ、迷いに対する態度?と言ったら良いのか扱い?は変わってくるかもしれません。副作用的にね。

 

迷いっちゅうのは突き詰めると、死を避ける本能につながってくるんですよね。
死を避けるのは、身体が持つ本能です。
死とは生命の終わりではなく、身体の機能の変化なんですよね。

生命は身体に宿ってるだけでなく、全てに宿っております。
それは無くなったりはしません。

でね。
迷いというのも、その表現が自然に発生しておるだけなんですよね。

天気と同じような自然な現象なんです。

悟ったらわしの周りだけ晴れになって、もう雨に降られることは無くなる。
なんてことはないのと同様、天気は今まで通りな訳です。

なので、「それ」が明らかになったからと言って、
自分自身の性格がころっと変わることもなけりゃ、
記憶が一切消えるわけでもないですし、
好き嫌いも今まで通りあるわけです。

ただ、迷いに付随する脅迫的な観念はどうしても薄れていくっぽいです。

好きは好きで、良いですし、
嫌いは嫌いでとっても素敵!

迷いは迷いであって良いじゃん!ってなると、
もう迷いは迷いではなくなってくるっていうね。

そんな感覚が自身の奥で芽生えるんですよねー。

最初に一瞥があったとしても、
よっしゃ!これで万事解決やで!みたいな思いがすぐにやってきて、
その割には、まだまだ嫌なことが起こるやんけ!
約束が違うやんけ!
といったような思いも起こったりしますのでね。

何度かそういった一瞥を繰り返してると、
一瞥とか、正直どうでもええことやったんや。
ってなことが板についてくるかもです。

もちろん、一瞥が通り道なのかというとそれも単なる体験の一つでしか無いわけです。なので気にする必要もありません。

何も持ってはおけないし、一瞥も同様に、
持っておくことは出来ないことを突きつけられるんです。

はぁー。そうなのね。
ホントに何にも掴まなくて良いし、掴むものはないのね。
ホントに空だけなのねん。
って、掴むことはもうないんだよ!って降参するしかないってのが認めざる得ない。
認める自分すらおらず、
単なる当たり前でそのまんまの「それ」を突きつけられるんです。

そうなるともう好きも嫌いも自然の素晴らしい表現であり、
その自然には分離は無く、みてる自分もその表現の中に溶け込むしかないんです。
っていうか、すでに溶け込んどるんですけどね。

あとは自由に、キーってなっても良いし、泣いても良いし、
強迫観念さんのいうことを聞かずに自由になって良いんです。
それでいて、自由に表現する行為者すらいないんですねん。

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