Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生も死もイメージの中

f:id:takuteto:20170926205703j:plain

生も死もイメージの中にある概念でしかないわけです。
まあ、ぶっちゃけ命しかありませんので、生はあるとも言えるかもしれませんけど、
死はありません。単にその生命が変化しとるわけですね。
その変化を死と捉えるなら、毎瞬死んどるっちゅうことになります。

もともと生があって、その後で、この命はワシのもんやで!
って観念上後付けすることによって、この観念が死という概念を作りよるんですね。

死がないなら、生も意味を失います。
生しかないなら、わざわざ生と呼ぶ必要性もないからねー。

ま、というわけで、生も死もイメージの中だけにあるっていうわけです。

なので、死の恐怖は誤解ですので心配ご無用なわけですが、
そうは言っても自我ちゃんは、ちゃんと死なないように算段をし続けます。

僕だって、
「おいタクさんよ。そういうこと言うからには、お前、何も怖くはないんだろうねぇ、、、、。」ってナイフをちらつかされたら、
ふぁーあああ!変な人がいるぅぅぅー。
ゆーて逃げると思います。

これは、ある種の反応のようなものであって、
この反応を過剰に意識する必要は特にないんですよね。

 

せやからね。
心配いらんねんやん!っていう理解が明らかになったとしても、
ちゃんと身体は防衛本能を持ち続けます。
なんか死を恐れない自分になる!というのともちょっと違います。

不必要だった深刻さはどうしても維持できなくなってくるかもしれませんけど、
それ以外は今まで通りなんですよねん。

深刻さっていうのは、不安や恐怖といった反応を
イメージとして持ち続けることで起こったりします。

実際は持つ何か?は存在してませんので、
本当のところは何回も反芻することで、持ち続けてるといったイメージを抱いていたりするんですよね。

ポワンってお気楽モードになったとしても、
いかんいかん!それどころやなかった!
と深刻さを再度味わってみたりしてね。

へへへへ、、、。
って笑ってしまった後で
いかんいかん!わしゃ今、怒っとるんやった!!!
みたいな。。。

で、なんで深刻になっとるんや?
と言いますと、やっぱりちゃんと生きなきゃダメだ!
みたいな思いがあったりするからなんですよね。

ややこしいことに、深刻さが増してくると、
ちゃんと生きなきゃならん!っていう働きであるエネルギーが
深刻すぎてこのままじゃいかん!と対処法を探したりもするわけです。

そやって、探し回ったり、
ひとまず安心したり、
そういったことをイメージの中で反芻しちゃったりするんですよね。

そういった働きをまるっと一括りに、
相手にするのをちょっと今だけ置いておいて、
どうにかしようともせずに単に眺めてみると、

それは窓の外の風景となんら変わりがないものやったんとちゃうやろか?
って思ったりするかもしれません。

そこに大きな意味があるんじゃないか?
と思ってるから注目していただけで、実際は外に吹く風と
価値は同じなのかもしれませんよ。

ありとあらゆることが全てである命の表現として起こっていて、
そこに分離はなく、
海の波のように起こっていながらも、
その波を外から観察する誰かすらもいてないっていうね。

あえて捉えたりしなければ、何にもないと同じということになり、
捉えたとしても、それは無いを有ると見なしているだけとなり、
有るも無いも同じものを見方を変えているだけやったりするんですよね。

コインの表もコインの裏もコインであることには変わりはなく、
色も空も同じであり、色を空にしたり、空を色にしたりするということもなく、
それは単にイメージの中でそう捉えていただけやったということなんですよねん。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします