Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんは自我ちゃんを手放せません

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自我ちゃんが自我ちゃんを手放すことって、そりゃまあ出来ませんよね。
目ん玉が目ん玉を見ることができないのと同じでね。

だから、わからんままでおったらええんですよ。
とかいったりもするわけですけど、
これまた、自我ちゃんはわからんままでおることもできなかったりするんですよね。

自我ちゃんはわからんを極端にキライますのでね。

っていうか、わからんものを掴む動きが自我ちゃんなんです。

なので、自分がわからんままでいようとすると、
それも何かを掴んじゃったりするんですよね。

わからんままをつかもうとするっていうかねー。

 

ただ、自我ちゃんは、実は自分ではありませんのでね。
自分では無いということは、みることができるんです。

だから、単にみてあげればいいというわけですね。
単に見ようとすると、また、
「つまり、これが自我のエネルギーだというわけだな。」
「このエネルギーを何とかしずめれば良いのだろうか?」

みたいな考えが出てくるかも知れません。

はたまた、
「おっと忘れてた!見なければ!」
みたいな思いに囚われたりもするかも知れません。

単に見たら良いんですけど、
いつのまにか、
「見なきゃダメだー!」
といった観念になって、
さらにこの観念が強迫観念になってきて、

いかん!朝の瞑想を忘れた!!!
もっと瞑想しなければ!
常に鑑賞意識でいなければ!
巻き込まれてはダメだ!

みたいなね。
そんな思いにも囚われちゃったりしてねー。

それやと、単にみるじゃなくて、
もうすでに何とかしようとする動きに絡め取られてしもてるんですよね。

自我ちゃんの動きをなんとかしずめようとする必要はありません。

また、しまった!また巻き込まれてた!っていう思いもこれまた自我ちゃんの思いですので、聞く耳を持たなくてもいいんです。

でね。
ふとその気になったときにでも、単に見て見たらいいんです。

単にみるというのは、言葉を追いかけず、感情も追いかけずにいるって感じです。
分析もいりません。

どんな感じか?みたいな感想すらいりません。

わからんままでおると、そこには、何かを掴もうとする衝動があると思うんです。
それを単に見てあげる感じです。

その衝動に乗っからなきゃ、何も始まらないわけでも無いですし、
乗っかっても「それそのもの」はなんの影響も受けてないんですよね。

だから、掴まないでいられる自分とか、掴んじゃってる自分とかね。
そんなのを行ったり戻ってきたりしてるように感じたりすることもあるかもしれませんが、それも一つの解釈です。

そういった解釈もほっておいて大丈夫です。

焦らなくても良くて、焦るなら、その焦りも自我ちゃんの掴みたいエネルギーなんやねぇ。。。と人ごとのように感じつつ置いておいたらいいんです。

そうしてると、「それそのもの」が芽吹き始めます。
絶対にそれそのものがどこかに行くなんてこともあり得ません。

それそのものを自分に持ち込む必要はありません。
常に静かである自分を演じる必要も無く、
悟った人みたいなテンプレートを持ち込まなくてもいいんです。

それそのものを抱きながら、
おいっ!!!これ、俺が念入りに焼きながら育てた肉やんけー!
って、焼肉屋で騒いでたらいいんです。

ま、変な例えを言っちゃいましたが、
それを抱きながらダンスすればいいわけです。

っていうか、勝手にダンスが起こります。
誰でもないそれそのものの中でね。

そうなると、変なことに自我ちゃんに巻き込まれてた誰かもおらんかったんやん!
っていう。
そっか、大丈夫なんやん。すでに大丈夫なんやん!
大事なことやからもう一回。

大丈夫なんやん!!!

ってな明らかさが
「ずっとここにおったんやで!」ってな具合で姿をあらわすんです。

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