Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

単に観ると「それ」って同じこと?

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単に見て見たらええねんってね〜。
よく僕も書いてるわけですけど、

まあ、正確に言えば、見るやなくて、観るなんでしょうけどね。

ま、その辺の漢字ことはどうでも良いとして、、、。

で、何でもかんでもをね。
見ることができたらね。
なんていうか、見るが極まって来ましたら、
やっぱり、あ!そういうことやったんか!とかわかってくると思うんですよね。
でもって、随分と楽にもなって来ます。

 

でね。
まあ、出来ることっていうのは、この見るくらいしかないと思うんですよね〜。

ちなみに、
そのままにしておく。
許す。
っていうのも、
見るっていうのと大体同じ意味です。

例えばね。

どうにも嫌な思いがあるとするじゃないですか。
最初はそのイヤさにどっぷりとハマりこみ、そこから紡ぎ出される物語が
延々と頭の中で繰り返されたりすると思うんですよね。
また、物語が物語を呼んで、罪悪感だったり腹立たしさだったりが襲っていたりもしてね。

でもって、いい気分でいたいのに、その気分を阻害するこのイヤな感じをどうにか抑え込まなきゃ!みたいなね。
そんな思いも湧き出て来て。
すると、物語をなんとか変えようと躍起になる。
物語の中にあるイヤな理由を摘み取れば解決するんやなかろうか?
ってね〜。

それがうまくいかないとなるとまた、悩みの中に沈み込む。。。
ってなかんじでね。

見てみると、
まず、その思い、そしてその思いからくる物語がやっぱり最初に目につくとおもうんですね。
で、そこから一切の言葉を置いておいてみるわけです。

すると、感情や感覚だけが残ってくると思うんですね。
それが、身体の方にキュッとくる感じであったりして。

で、またその感覚を感覚のままそのまんまにしてあげるようにしてあげるとね。
力んでいたその感覚も緩んで来たりするわけです。

すると、ここで、見てる対象と見るものとの間にちょっとした空間ができるっていうかねー。
その空間を見つけ出すことができると思うんです。
言葉もなく感覚もなく、ただ、リラックスした何もない空間が残るわけですけどね。
最初はね、この空間が、どうにも居心地が悪いように感じるかもしれません。

その居心地の悪さも単に見てあげますと、
そこにある「つかみ取ろう!」とする衝動がね、見えてくると思うんですね。

この衝動もね、見られるとどうも都合が悪いようで、
ジーッと見られちゃうと衝動が衝動として保たれなくなっちゃったりしてね。

で、その衝動にも乗っからずにいると、また何にもなさが残ってくるわけですね。

この何にもなさと観る者が統合して、まあ何にもない。
ただの在るが残るわけです。

で、また起こることが起こっては、掴み取ることもあったりして、
そしてまた、掴み取ってたことに気づいては何もないに戻ったり。。。

この辺が極まって来ますと、すぐに観る者に戻ってきたりも出来るようになってくると思うんですよね。

で、ここで今日のタイトルである
「単に観ると「それ」って同じこと?」
という事にやっと戻ってくるんですけど、

この観る者と「それ」とはまたちょっと違いますし、
何にもない状態と「それ」ともまたちょっと違うんですよねー。

やっぱり、観る者だと、まだ多少の「自分感覚」のクセが残ってると思うんですね。
わずかな中心点といいますか。

こればっかりは仕方がないのでどうしようもありません。

で、どうにもしなかったら、どっかのタイミングでね。
まあ、タイミングも時間もないのでなんとも言えませんけど、、、。

ポンとそのクセが落ちることがあるわけです。

するともう、状態へのこだわりも落ちます。
だって、在るがあるだけ、起こってるだけ。
そしてあるのは「それ」しかないわけで、
それがなんていうか、めっちゃ当たり前やん。そりゃそーやん。
って感じなんですよねー。

まあ、言葉で表現するとめっちゃ支離滅裂なんは重々承知なんですが、
くるりんとひっくり返って、当たり前が当たり前になるわけですね。

と、いうわけで、出来ることは見るくらいしか出来ませんけど、
わずかに残る中心点が、ポンと落ちる時、「それ」しかないやん!になるっていうお話でした。

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