Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

状態ってのは常に変わるもんですのでねー

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静かな静寂な状態をずっと保つ。
とかね。
この話はね~。そういう状態を保つ話や無いんですね。

僕もよく、タクさんは常に、私はいないって言う状態なんですか?とか言われることがあるんですけど、
もしそれが、なんか静寂に満ちてて穏やか〜な感じで毎日過ごしておるのか?と言いますと、とんでもありません。

普通にゲームして悔しがったり、愚痴をこぼしながら仕事をしておりますし、
よっしゃー!今日は焼肉やー!ゆーてテンションあがったりしております。

ま、厳密に言うと、悔しがったり愚痴こぼしたり、テンションあがっていたとしても、
本来はワタシはおらんわけですけど、それは、パーソナリティーとしての現れが無いということじゃないんですよね。

なので、僕だけじゃなく、みんな常に私はいないんですよ。
ってことになるんですけどね。

ある日突然、私が消えたんです。
っていうよりは、
なんやねん!ワタシっておらんかったんやん!イメージやったんやん!
って気づきがあるわけですね。

 

なので、なんか静寂に包まれ、全ての思考や感情から離れた状態。
それがワタシはいない状態なのかというと、そういうことじゃありません。

静寂に包まれているのなら、単に静寂が起こっとるだけってことになります。

それを保とうとしても、常に変化するでしょう。だって、それが状態ですからね。

じゃあ、何がどうなるんや?といいますと、
どうにもならないんですけど、今まで掴み取っていた状態神話みたいなもんはなくなってきます。

なんやねん?状態神話って。
と言いますとね。

なんとか良い状態を常に保たなきゃいけないっていう強迫観念ですね。

それが、なくなってくるわけです。
なんでなくなっていくのかと言いますとね。
状態チェックマンみたいなね。
つねに状態をチェックしとるやつのチェックが及ばなくなってくるからです。
そのチェックマンの奥にある自分という観念。
その観念を超えた「それ」を知るからなんですよね。

もちろん、いい気分ではいたいんですよ。
でも、そこに不必要な強迫的なもんが無いって感じです。
あるように見えて実はないことのネタが割れとるんですね。

なのでね。
いつでも、どこかで時間をとって、瞑想などをして、静寂な状態に戻るようにする。
というのともちょっと違うわけです。

もちろん、それはそれで良いわけですけど、静寂な状態っていうのに特にコダワリもないわけです。
どんな状態もフェアに存在していて、そして全ては起こっては消えていくんですね。

コダワリはないけど、好き嫌いは依然としてある。
って言う感じですね〜。

で、状態神話がなくなりますとね、
べきの意味も失っていきます。

べきというのは、「〜であるべき」という考えのことなんですけどね。
これって、やっぱり状態のつかみ取りみたいなもんなんですよねー。

で、この「〜べき」の意味がなくなっていきますとね。
不安は解消しなきゃいけない!ていうのも無意味化されていくのと同時にね、
ワタシはいないんだから自由であるべき!っていう「べき」や、

あ、またワタシ、エゴが戻って来た。まだ修行が足りんなぁ。
みたいな「べき」も無意味化されていくんですよ。

なので、不安が起こってても、そんな自我ちゃんもかわいいし、
自由を謳歌する自我ちゃんもかわいいわけです。

強がる自我ちゃんもかわいけりゃ、弱い自我ちゃんもかわいいわけですね。

でね、かわいいから深刻さは減って来よるんですね。
深刻ちゃんの本来の可愛さが明らかになってくると、深刻ちゃんは従来の深刻さを発揮しにくくなるっぽいです。可愛さがバレてしもてるからねー。

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