Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探す前には失うことが必要ですんで。

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自己探求ってね。
ほら、読んで字の通り、自己の探求やないですか。
真我の探求っていうのも、

真の自分の探求ですよねぇ。

つまり自分というものを探すっちゅうことなんですが、
そういうのを探すということは、
それが今、手元にないと思ってるからですよねぇ。

だから探すわけですけど、
探すからには、どっかの時点で失ったはずなんですね。

失ったから探すわけですからね。

 

じゃあ、いつ失ったんでしょうねぇ?

モノじゃないから、落とすわけじゃありませんし、
どっかに忘れてくるわけでもないですからね。

しかも、自己だろうが真我だろうが、自分ですからねー。
どっかに落としたり、忘れるようなことって出来ませんよね。

ネコがネコをなくすわけないですのでね。

無理なんですね。そんなことは。

真の自己も、真我も無くせるはずはないんです。
なので、すでにもう真の自己であり、真我であるわけです。

じゃあね。
こう思うかもしれません。

きっと自分の中にあるダイヤモンドが磨かれてないから、
キラキラな自分が発見できないんだ!

なので、磨いて汚れを落とさなきゃいけないんだ。

みたいな感じね。

でもね。
やっぱりモノじゃありませんのでね。
汚しようがないわけなんです。

一所懸命、空気にペンキをふりかけても、
空気に色は塗れませんよね。

だから汚れようがないわけなんです。

じゃあ、なんで真我であるって感じがないねーん!
って思うかもしれません。

それは、単に、こんな自分が真我なわけない!って思っとるからなんですよね。

じゃあ、そう思えるようにマインドコントロールすりゃいいんか?
というとそういうことでもありません。

それだと、思っとる中、つまり思いの中に自己があるということになりますからね。

ついてるついてる!って連呼して思いをポジティブに変えてみても、
ありがとうありがとう!って繰り返して、思いをいい気分で保とうとしても、

思いは単なる思いに過ぎません。

もちろん、いい気分でいることは良いんですよ!
でも気分に支配されなくてもいいんです。
気分に支配されずにいると、もうすでに良い気分なんですよね。
ある意味。

僕は仕事柄(広告関連の仕事をしております)、よく広告の中に、
※写真はイメージです。実物とは異なる場合があります。
みたいな但し書きを入れたりすることがよくあるんですけど、
思いっていうのは全てイメージですからね。

イメージはイメージに過ぎないわけです。
そしてイメージは色々と変わるわけです。

じゃあ、いわゆる「気づいた人」っていうのは何に気づいたんや!
「目覚めた人」っていうのは、何に目覚めたんやー!
って言いたくなるかもしれません。

それはね。
まさに、
※写真はイメージです。実物とは異なる場合があります。
っていうのと同じなんですよね。

言い換えると、
全て(イメージ)は幻想である。
幻想の中には実体はない。

っていうことになります。聞いたことがあるフレーズですよね。

気づくのは、単にイメージを掴み取ってそのイメージを通してみてたものを現実としてたんだなー。
っていう事だけです。

でね。
イメージをコントロールしてみても別にいいんですけど、どうコントロールしたところでやっぱりイメージやで。
というわけなんですよね。

また、イメージからの解放をイメージ内で固定することすら無意味なんですよねん。
それもまた新たなイメージになっちゃいますのでねー。

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