Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

認識がひっくり返るとき

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至福っていうのはねー。もうデフォルトが至福なわけです。
赤ん坊は思い悩んだり苦を感じてたりしてません。

そりゃ、お腹が減ったりしたら泣きますよ。

でも、泣くのが苦であるという設定は持ち合わせていないんです。

いつの頃からか、泣くのが苦であるという観念を取り込んだわけです。

なので、至福っていうのは、ゲットするもんやなくてですね。
苦という観念が、もともとの至福。幸せを覆い隠しとるというわけです。

本来が至福です。

 

根強く残る、身体が自分という観念ね。
それが分離を生じさせておるわけですけど、
いわゆる思考っていうのは、観念が元となってそこから現れておるもんですので、
思考を調整して、なんとか分離を解消しようと試みてもうまいこと行きません。

なので、まずはこの観念に気づいてみないとどうにもならんわけです。

観念に気づくチャンスは、何かを抑え込もうとしているときなんですけどね。

この何かを抑え込もうとしている時に感じる抵抗感こそが苦の正体ですので、
苦を感じているときは、何かを抑え込もうとしている時になるんですよね。

そんな時に、ちょこっと落ち着いて、この抑え込みを見てみると良いと思うんです。

できれば、言葉のたぐいは一切ほっておいてね。
感覚だけを見てみると、この感覚に良いとか悪いは無いってことに気づけるかもしれません。

ただ、それがあまりにもしんどい場合は、自分で解決しようとせず、
プロの手を借りれば良いんですよね。

喉がいがらっぽいなら、薬を飲むのと同じ感覚でね。

身体という個別のモノがあるという認識。
この認識を自分が持っているから、他の人も、他の物も自分とは別にある。
という認識が生じております。

ですが、実は、そういった自分以外のものも、自分の中で認識しているからこそ見えているわけです。

でね。
ここからちょっとややこしい話をしてみますけど、

ここに分離の感覚という嘘さが見抜かれると、

正解やったんは、こっちの認識、体験、経験のほうやったんやん!
ってことが明らかになってきます。

体験や経験には、どうしてもそれを味わう行為者がいるといった誤解もありますが、
行為者は、体験や経験に必ずしも必要やなかったんです。

するとね。

経験や体験のような感覚に後付けで、身体を持つ個人という行為者という観念を付け加えとったことが明らかになるんですよね。

それが明らかになったとき、認識がひっくり返るような感覚が起こるかもしれません。

それがね、なんか光りに包まれたワンネスのような体験として紹介されるパターンもあるようなんですけどね。

それをファンタジーのようにとるのも、分離の前提がある自我ちゃんだけの話であって、そもそもなんで、身体は自分であるといったルールを採用しとったんや!
それが単なる観念であり、それを掴み続けるからそのルールが適用されるんやんけ!

ってねー。
そういうふうに見抜かれると、
別段、ワンネスの感覚も当たり前やんってところに落ち着いたりするんですけどね〜。

ちなみにこの時点で掴み取ると、それはある種の神秘体験としてリアリティをもって感じられるんですけどね。
そうなると、また掴み取ったルールが適用された観念の物語が始まるわけです。

ま、それはいいとして、
デフォルトが至福ではあるんですけど、冒頭にも書いたように、
それはゲットするもんじゃありませんのでね。

死後の世界に金は持って行けないぜ!

っていうのと同じでね、
ありとあらゆる体験をとっておくことは出来ないわけでしてね。

とっておけるという思い込みが、あらゆる体験にランク付けをしておっただけで、
そのことが見抜かれると、どんなことも素晴らしく、そしてただ起こっていて、
それでいて、不完全さはなく、すでに愛であり命の表現である。

てなことが見抜かれるわけです。
次元の上昇なんて、試みなくても良くて、
次元という区別すらなかったわけなんですよねん。

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