Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

苦しみの解決を非二元に求める

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おいコラ!
タクちゃんヨォ。
あんた、いっつも単にみて、それがあることを許してあげてくれ!
みたいなことを言うけどヨォ。

わしゃ、この苦しみから解放されたいんじゃ!
それがあったら困るんじゃいっ!

なんてねー。
ご意見もあったりなかったりするのかなぁー。
なんて思ったりするタクさんでございます。

おはようございます。

 

この辺、どうにもややこしいジレンマっちゅうのがあるんですよねん。
苦しみの解放を求めて、非二元やらに辿り着いたりするわけですが、
非二元っちゅうのは二元のなさ、つまりは分離のなさの事だったりするので、

苦しみを感じているのは、あなたがまだ、自分という観念を大事に持っておるからじゃー!

みたいにね。
言われちゃったりして、、、。

んなこと言われた日にゃ、
あ、まだ自分が至らないんだわぁ。
だって、まだ後生大事に私を持ってますもの。。。
まだまだ、私はダメなんだわ。。。

おまけに、苦しさも消えないし。。。修行が足りないんだわ。。。
なんて思っちゃったりしてね。

また、僕なんかも、単にみてあげてあるのを許したったらええんです。
なんて言っちゃったりするもんだから、じっとそれを見つめてみたりして、、、。

こういう場合って、やっぱり大前提に自分がいて、自分に覆いかぶさる苦しみがあって、
この苦しみを取り除いて、自分を解放させてあげたい。。。

っていうねー。
そういう観念があるんやと思うんですよね。

でもって、
すでに今のあなたでもう完全完璧なんですよー。
なんて言葉を聞いたら、
きっと、この人と同じ理解を得たら、自分もそう思えるのかもしれない。

そうなると、覆いかぶさる苦から自分を解放させられるかもしれない。

ってねー。
思ったりもするもんなんですけど、

このね。
思いで紡がれる物語がね。
まさに、物語であって、この物語に対してのリアリティのなさを見抜くっていう話ですのでねー。

この物語がどんな感じで生じておるのか?
って言うのを確かめてみたらどうでっしゃろ?
っていう話なんですよねー。

なので、みてあげたら良いんですよー。
っていうのは、なんの想念も持たずに、単に見てみる。
っていうことなんですね。

で、許してあげるっていうのは、
その苦しみを受け入れなければならない!みたいなもんとは違いましてね。

なんの想念も持たずに見るために、
この苦しみがあるのがダメだー!という思いが、物語を発展させておるっていうね。
その様子を見てみるってことなんです。

ダメだー!という思いを見るためには、
そのダメだー!に乗っかる前に気づかなきゃなりませんのでね。
そのために、何かしらの想念にも乗らずに、
ただそのまんま見てごらん?
という提案なんです。

そうするとね。

あ、
何かしらの想念に乗っかるから、その想念のストーリーが始まってるんやん!
っていう、ホントにシンプルな様に気づくかもしれません。

じゃ、この想念に乗っかろうとする衝動はなんなんや?
っていうのを見てみると、
あ、これが掴もうとする自我ちゃんやったんかい!

ってね〜。
気づけるかもなんです。

そうすっと、気づきに気づきが重なってきて、
ファッ!とした緩みにリラックスできます。

いつしか、理解の無意味さがしっくりしてくるんです。
理解への意味づけがさらなる理解を要求して物語を展開させているわけですが、
そやって起こるストーリーのダンスは、実は意味を必要とせず踊れることを知るっちゅうかねー。

ま、言葉の限界が近づいたところで、
まったあっしたー!

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