Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

誰が生きとるのか?というのを観察してみる

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私はいない。って言われても、
やっぱり、自分は生きてますしねぇ。
そういう実感もありますし。

ペシってしっぺされると、あいたっ!ってなりますのでね。
やっぱり、わし。いてますやん!
なーんて思うかもしれません。

 

ここ、ちょっとした勘違いがあって、
私がいないというのは、
今まで、私としていた心や感情や身体。
それが無いというのではなく、
それらをバックでコントロールしている影の黒幕みたいなね。
そういう行為者という「私」っておらんよね。
っていう話なんですよね。

でもって、ペシってされて痛い感覚?
この感覚は確かにありますよねー。

でも、その感覚が腕なのか?おでこなのか?
実際のところ、おでこをペチンとデコピンされたりしたら、
おでこが痛い。。。
と思ったりしますが、

この「おでこ」はレッテルでして、
ホントにあるのは痛いという言葉が出る以前の
ある種の体験のようなものですよね。

その体験と体験への気づきがあるわけです。

ちなみにこの体験とそれに気付く気づきに分離はなく一緒のもんですのでね。
つまり、目の前にあるもの。
名前にする以前の体験と体験ですら無いもの。
その全てが、それそのものであり、
その対象とそれに対する気付きも一つであり分離がない。

とまあ、そういうもんなんです。

ありとあらゆるものは常に姿を変えながら、その全ての中で表現されております。

小麦はタネから芽吹き、実をつけ緑から黄色にと変化し、
実は石で潰され粉になり、
粉は固めて焼かれてパンとなり、
人の胃の中で分解されてエネルギーと変化をする。

水は空から大地に降りて川の一部となり、
その一部は動物の喉を潤して、血液となり、
いずれ排出されて大地に帰り、、、

人は食べ物からエネルギーを受け取り思い思いの表現をしている。

エネルギーは時に形へと姿を変えて表現し
形は時にエネルギーへと姿を変えて表現をする。

形とエネルギーも同じものなんですね。

そしてこの表現されているということ。
この動き。
それがまさにイノチなんですよねん。

この完璧なつながりに分離される要素はないわけです。
つながりが変化を無を常に表現しておるわけですからね。

誰が生きてるのか?というとイノチが生きているという事になり、
命とはすでに生きている意味ですので、
もうイノチだけになっちゃいますね。
ありとあらゆる起こってる事。それはイノチの表現が生き生きと起こってる。
っちゅうことになりますねー。

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