Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考は予定を立てるけど、思考の予定は立てられない

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自我ちゃんは整理と分類をするのが好きですからねー。
妙に分類したがるんですよ。
例えば、心と身体とか、思考と感情とかね。
この辺は勝手に分けとるだけで実は一緒のものなんですよねー。

思考は自分じゃないと言う言葉もよく聞くと思いますが、そんな時こう思うかもしれません。
自分が、今から手をあげるで!って考えてから
ちゃんと手をあげることができるもん!
ってねー。
でもねー、身体と思考って同じもんなんですから、
そりゃそうなんですよねん。
身体である思考が考えて身体である手が上がったんですよ。
それを行為した自分はいてませんやんか。っていうことなんですよね。

なんでやねん!わしが考えたんや!と思うのなら、考えは自分がコントロールしてることになるはずなんです。
でも、コントロール出来ないんですよね。

 

えーっと、例えば予定を立てることってありますよね。
後1時間で用意して、家を出て電車に乗って。。。
みたいな感じでね。
ま、これは今の思考がやっとるわけですけど、
じゃあ、思考の予定となるとどうでしょう?

3時間後に気分が良い思考が浮かんできて、
その後、やる気がぐんぐん湧いてくる感じを味わった後に〜、
夕方にちょっとおセンチになって、過去の甘酸っぱい思い出に浸ったりして
「でも、負けない!男の子だもん!」って心の中で呟いてから、
帰路は上を向いて歩いて〜。。。

なんてね。
そんな予定立てられませんよねぇ?

あぁぁぁー。そういえば最近、恋してないなぁ。
せや!今日はあの子に恋してみよ。
ってことも出来ませんしね。

出来るっていうか、起こってるのは、
今、湧いてきてる思考に気づいとるってことだけなんですよね。

で、その思考に入り込んでさらにストーリーを展開させるか?
もしくはほっておくか?

これだけなんですよね。

ほっておいたとして、ちゃんと呼吸は続きますし、
心臓も動きます。
で、思考も起こっては消えていくわけです。

ただ、ほっておくのはまかりならん!という信念がある限り、
その信念が強迫観念のようになり、
思考に思考を重ねるストーリーづくりに入り込んでいくわけです。
そうやってストーリーづくりをしておかないと、えらいことになるで!
っていう恐怖も伴ってたりしてね。

こういうのを読んでますとねー。
んー?どういうことなんや?
わからん。
なんか雰囲気でわかった感じになることもあるけど、
何かわかったのかな?って確かめてみるとやっぱりわからん!
っていうのも、この話をストーリー上の一つのピースとして持ち込もうとすると
途端にピースがさらに必要なピースを生み出しそれを探し、、、と繰り返されるわけなんです。そうするとおわりはないんですよねん。
終わってわかった感じになるときは掴んでないときなんです。

せやからねー。
なんとかしようとするよりは、なんとかしようとする観念の方を見てみるといいんです。
なんで、なんとかしようとしとるんやろ?
このなんとかしようとするエネルギーはどっから湧いとるねん?
って感じでね。
観察してみると、はじめて、そんなん意識してなかったけど、そういうエネルギーがあるわー!って気づけるんです。
そしてそのエネルギーはいかにも正当性があるように単に感じてたけど、
その正当性ってホンマか〜?って疑ってみると、どこにも正当性はなく、
単に起こっとるだけやったりするんですよね。
ちょっとしたクセみたいなものでねー。

そのクセを発見できたなら、
なんやねん!単なるクセやったんかい!って
突っこんであげてくださいね。

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