Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

記憶ストック

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子供の頃って、記憶のストックがまだあまりないので、
うおっ!なにこれ?すげー!よくわからんけどすげー!
って思う機会が多いと思うんですよねー。

で、
これは〇〇だよーん。
って教えてもらった途端。
ほほう。〇〇か!と固定してしまう。

そうすると、次に〇〇を見た時は、すげー!じゃなくて、
記憶の中にある〇〇を引っ張り出しちゃうんですよねー。

すると、もうそれそのものを見るんじゃなくて、
記憶の中の観念である〇〇の方を見てることになりますからね。

記憶のストックの中だけで生きてることになるわけです。

最初は自分という観念すらなかったんですけどね。

あんたはタクちゃんよ。そして私はお母さん。
ってことを教えられて来ましたのでね。

生きてる生命の感覚は最初っからあるわけですが、
その後付けで、それが自分で、自分はタクという名前で、、、。

この感覚は個々の人がそれぞれ持ってて、、、。
といろんな設定が後から付け加えられて来たわけです。

そういえば、子供の頃はまだ和式の便所がたくさんあったんですけどね。
これ、、、もしかして自分だけ前後逆に教えられてるんやなかろうか?

僕は前を向いてやってるけど、本当はみんな逆に座ってるんじゃないやろか?
だって、水が流れる方向性も後ろから前に流れてるし、、、!!!

ハッ!!!!だまされてるかもっ!!!!!

とちょっと不安になってたことがありました。

 

ま、そんな感じで、最初にあった生の感覚は自分という観念に閉じ込められて、自分の命となり、その命は身体という観念に閉じ込められたりしてきたわけです。

っていうか、自分という観念を採用することによって、その観念を成り立たせる
材料をどんどん付け加えていったわけですねー。

そうなると、この自分を失うことはイコール生命を奪われることになりますので、それを守らなきゃならんわけでして。。。

でも、完全に守れる保証はどこにもないので、延々と自分の周りにちょっとでも高い城壁を立てようと頑張ったりしてねー。

そんなこんなで、聞いたこと、教えてもらったことばかりを見ることによって、すっかりそれがクセづいて、、、
全然隠れもせずにあるそのまんまの「それ」が見逃されておるわけです。

大人になればなるほど記憶のストックが増えて来てますので、もうそのストック内で成り立たない世界は恐怖すら感じるようになってくるわけです。

そうなると、自分と反する考えに対しては敵対心すら持ったりしてね。
その敵対心も自分のイメージの中にあるわけですが、そのイメージの中で戦いが始まったりするわけです。

この構図は、キン肉マン消しゴムを両手に持って、
とあーっ!
ぐわーっ!
って遊んでるのと全く同じなんですけどね。

めっちゃ本気でやってるから、ますます本気でイメージの中の世界を見るわけです。
この本気度はイメージを凝視する力の度合いのようなもんです。
それが執着といわれとるやつですね。

このイメージのストックが増えれば増えるほど、自由なスペースが少なくなってきますのでねー。
なんか不自由感を感じるわけです。

実際に不自由にさせる実態化したモノはどこにもないんですけどね?
持ってくることもできませんので。

でも、もう記憶のストック内を参照するクセが板についてますので、それに気づかないんですねー。

よく、見てみたら良いんですってこのブログでもいってるのは、
気づいてすらいないこのクセにまず気づいてみるってことなんです。

そして、見ることによってこのクセが見抜かれるんですよね。

自分という観念はこのクセから起こる動きですので、この動き自体が動きを沈めることはできません。
歩きながら足を止める。足を止めながら歩く。
みたいなことになりますのでねー。

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