Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

全てを見ているもの。

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僕らは思考を感じたり、感情を味わったり、
身体の感覚を感じたりすることはできますよねぇ。

だからね。
どうもそこに自分がいる。
っていう勘違いをしとるのかもしれないんです。

で、その見ているものに自分を同化させるわけです。

この同化の力が強ければ強いほど、
当然のことながら、不自由になります。

なんでなん?
と言いますと、

そのとある思考や、とある感情、とある感覚に閉じ込められるからですね。

 

きっと大丈夫やで!
とか、
止まない雨はあらへんで!
とか、
祈ったら楽になるで!
とか、
大丈夫になる奥義のマントラを授けよう!

とかとか、

ま、なんでもいいんですけど、
そういう言葉や行為に触れて、
確かに楽になる場合ってあるんですよね。
せやから、
スピとか宗教に救いを求めるパターンもあるっちゃあるわけです。

なんで、楽になるのかというと、
特定の狭い観念から解き放ってくれるからなんですよね。

で、そこにはより大きな観念が用意されているわけです。
神とか宇宙とか、伝統とかね。

まあでも、実は観念に大きさってありませんのでね。
イメージ上にはありますけど、宇宙だろうが、小さな悩みだろうが
観念は観念でして大きさや壮大さってのはイメージのトリックみたいなもんですのでねー。差はないわけです。

で、観念への思い入れが強ければ強いほど、
また不自由になるわけです。

あ、
別にスピや宗教批判やないんですよ。
スピや宗教に限らず、全ては観念やということです。

観念とは物語やというわけでして、
物語には演じる自分という観念がまたあるわけですね。

この演技がおままごとと同様のものなんです。

つまり、物語以前には自分という観念があるわけですね。
これが分離の観念です。

そして、この自分という観念は常に何かしらの別の観念を必要とします。
自分とはなにか?を常に掴んでおかなきゃ、この自分は確立できないんですねー。

そして、掴むものを増やすことで、より自分の確立を色濃くしようとするわけです。
逆に自分を確立している観念を奪われると恐怖を感じます。

なんでこの自分という観念は、同化できる観念を集めたがるのか?
と言いますとね。
じつは、この自分っていう実体がないからなんです。
この自分のなさを知ってるからこそ、それを恐れるわけです。

だって、自分の身体とか、自分の思考、自分の感情。

この、身体の感覚や思考や感情。。。
これはあるけど、それ以外にあるはずの自分っていないでしょ??
体や思考をコントロールする何かが背後にデーンと控えてるようなイメージはありますけど、探してみるとないんですよね。
だから、常に何かに同化しようとするんです。
身体だったり、思考だったり、感情にね。

なんで、そんなに自分のなさを怖がるんや?
と言いますとね、全てである「それ」を自分という観念という器に入れ込んじゃったせいで、自分を失うと、全てを失うっていう誤解があるからです。

でも、どこにもない自分を失うなんてありえないんですけどね。
なんか、身体がなくなると自分が失われる。
思考や感情がなくなると自分が失われる。
って感じちゃってるんですよね。

それでいて、じゃあ、身体が自分なん?って聞くと、
いや、身体は自分の持ち物の一つや!って言ったりして、
どうも矛盾したりしとるわけですけど。。。

この自分という観念が見抜かれるとね。
今までずっとあった在るが、自分という器から解放されるわけです。
でも、実際に解放されるわけじゃなく、
器に入れたことにしてたという設定だけが見抜かれるだけでね。

月の土地の権利書ってそういえば昔流行りましたけど、
あれに似たようなもんでね。
空中にイメージの線を引いてその線があるように思ってた。
みたいなねー。

宇宙からみた地球はどうでした?
と聞かれた宇宙飛行士が、
「うん。国境の線は見えませんでしたわ」
ってゆーてはりましたけど、
それと似たようなもんで、

自分という無いもんを、単にあるとみなしていただけ
ということが見抜かれるんです。

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