Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては未知でござる。

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全ては未知であるっていうのもねー。よく考えたら当たり前なわけでして。

未知の中に飛び込もう!ゆーてねー。
なんかカッコいい表現なわけですが、飛び込む飛び込まない以前にもうすでに未知ですし。。。
ちゅう話なんですよね。

でも、未知だとやっぱり怖いんで、なんとか、
確率的なもんでもいいですから!!!
ということで知っておきたいんですよねー。
人情として。
だって、人間だものっ。。。

 

はい。
おはようございます。
タクさんです。

今日は未知について書いて見たいと思います。

「それ」とは未知である。
だから、言葉で表現できない。
っていうねー。

その未知についてですん。

ま、そもそも、全ての大前提、今、ココとは「未知」なんです。

この「未知」の中で、
未知じゃいやー!っていう思いが、色々と思考や記憶をこねくり回すわけです。
そして、そのこねくり回している中にはいりこんどると、そのまんま、今ココから目がそらされとるというわけですね。

未知だと、いろんな不安への対処法がありませんのでね。
それをなんとか解決しておきたいワケなんです。

ママン「ほらお父さん。ごはんですよ。」

パパン「ちょっと待った!」
「今ご飯を食べると、確かにわしのハラヘリは回復されるだろう。
でも、そんなの一時的なもんじゃないか!
わしは、また明日もハラヘリを体験しなきゃいけないと思うと
もう不安で不安で仕方がないのじゃ〜!!!」

ママン「うるさいから早く食べちゃいなさい」

ってな感じでしょうかね。

よくわからん例えですけど。。。
ちょっと違うか、、、
いや、、、
全然違うか。。。ま、いいか。


ま、本来全ては未知であるわけです。
だから世界は常に新鮮でイキイキと満ちているわけです。
それを、既知という観念で型にはめると、
イキイキ感が色褪せてしまっちゃったりするんですよねー。
そのまんまから目を背けて、観念の中を見ているって感じです。

実際のところ、過去とか未来ってのも無いんです。
記憶の中にだけ、過去があって、
記憶から作り出される予測やイメージの中だけに未来があるわけです。
ホントにあるのは、今だけなんです。

既知。
すなわち、知ってることというのも、過去か未来の中にだけあるわけでして、
その過去や未来という思考のイメージの中にフォーカスしておりますので、「今」から目がそらされているというわけですねー。
そして、今から目をそらそうとする衝動の元にあるのが、
「未知はイヤよ!絶対!だって怖いもの!」
という思いから来てたりするわけです。

よっしゃ!
じゃあ、この怖さを克服したら!
このイキイキとした今に目覚めるわけやな!!!

と思いがちかも知れませんけど、
それも、将来の自分。いつか目覚める自分という未来を見てることになりますので、
いつまでたっても、鼻先のニンジンを追いかけるような。。。
そんな感じになっちゃったりするんです。

怖がるのは生存本能の自然な働きです。
それにフォーカスすると、全てがキューっとその本能の中にフォーカスされます。

すると、元々ある「それ」「全て」が自分という本能の働きの中に入り込み、
キューっとフォーカスされることによって、自分以外の真っ暗な何か?
が広がるわけです。

そこで、分離という観念も生じるわけですねー。

単に見てあげると、フォーカスの力は弱まります。

そして、フォーカスしようが、どうしようがなーんも変わってないことが明らかになってくるわけです。

単に、未知の中で、未知じゃいやー!という本能が単に起こっていただけで、それが起こっている!と思っている行為者すら実はいなかった。

ふわぁぁぁ。
単にずっとあった在るが在るだけ。
その中で起こってるという認識の中に入った時だけ、何かが起こっていて、
同時にすべてで在る何にもなさもあるんですねー。

てな、よくわからん表現になるわけです。

今、まさに、ここにある全て。
その中で何かをつかもうとする動き、そして掴んだと思い込んでいる思考の中。
その中にだけ、既知がイメージとしてあるだけで、
実際は何も掴んだこともなく、掴むものもないわけでございまして、
掴みたいという衝動だけが、未知で在る全ての中で起こっている。

厳密にいうと、起こっていると思っている間だけ起こっているんですねん。

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