何でもかんでも対象化する必要があるのか?
っていうのをねー。
一回疑ってみるのも良いかも知れません。
その対象化って、いつもホントに正確で正しかったでしょうか?
もしかしたら結構曖昧なことも多かったんじゃないでしょうかー?
そしたらね。
何でもかんでも対象化する必要性ってホントにあったんかいな?
って疑ってみるんです。
何から何まで対象化して掴まなきゃいけないものなのか?
もしかしたら、その信念に誤りがあったんやなかろうか?
ってねー。
たまに、悟りの理論とは?
みたいな質問も受けたるすることがあるんですけどね。
時に、それが、なんか
ラッパー対決みたいな感じで、
この質問にこいつはどう返してくるのか?
みたいなもんをメッチャ試してきてますやーん。
みたいな質問があったりもするんです。
なんていうか、理解の深さ対決!!!
みたいな感じでね。
まあ、その理解しようとすること自体がちゃいますねん。
って思ったりするんですよねー。
あなたはブッダのいう◯◯についてはどう解釈しているのか?
あなたの主張する???は何を指し示しているのか?
みたいなことを聞かれたりしてね。。。
だいたいは、
「そういうの詳しくないんですぅ〜。あしからずぅ〜。」
ゆーてるんですけど。
まあ、そういうゲーム?学習?の面白さもあるんでしょうけど、
そこは、よっしゃそういうゲームしようぜーってことで、
集まってやれば良いんちゃうん?
と思ったりもするわけです。
これが、単なるゲームやん!
ってことに気づけたら、あっという間に深刻さは消え失せます。
気づけてない間だけ、そういった深刻さがあるように見えてるだけなんですよねん。
その奥には、何でもかんでも、
掴んでなんぼ!
っていう信念があったりするのかも知れません。
もう当然のこととして染み付いてたりします。
疑う余地もなく、「掴んでなんぼ!」が染み付いてるんですよねん。
掴んでなんぼ、掴まなきゃ始まらない!
ってことから、探求が始まるわけです。
その探求の終わりは、掴んでなんぼ!って嘘やったんやーん。
っていう気づきなんです。
だって、掴んで得たものって一個も無かったんですもんね。
逆に掴むから、小さく感じてた。みたいなね。
水の中で水をつかもうとしてた。
そして、掴んだつもりになったその水だけを見てた。
実は手の中の水も常に循環してて、そもそも自分は大きな海の中にいた。
っていうか、自分がその海やった。
っていう気づきです。
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