Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

変幻自在なストーリーと、探求の終わり。

f:id:takuteto:20170727232046j:plain

朝起きてあー、夢だったのかー!ってな事ありませんか?

バッて目が覚めて、
あれ??
となるんですよねー。

ストーリーの中にいたはずなのに急に布団の上にいる??
ストーリーが繋がらない???

と、
軽〜く混乱した後、
記憶から夢じゃない方のストーリーを思い出して繋げるわけです。

そして、あー夢だったのかーって納得するわけです。

でもこれって、夢だろうが現実だろうが、
どっちも同じストーリーなんですよねー。

今までは夢のストーリーを採用していたものを、
現実の方のストーリーへと変更しただけであってねー。

どちらのストーリーも、頭の中で紡ぎ出されるイメージなわけですね。

 

全てはストーリーなんです。

そして、いわゆる非二元のお話というのは、
ストーリーの中の話じゃなく、
ストーリーだという見抜きの話なんですね。

ストーリーは人間のクセとして起こって来ます。
その中で僕らはなんとか正解のストーリーを探そうとします。

より正解に近いストーリーを探し続けることによって、
本当の正解に近づけるのではないか?
という期待を持って探し続けたりするわけですねー。

でも、実際のところストーリーに正解も誤りも無いわけです。
なので、探そうとしている間は探求は終わらないわけなんですよね。

だって、イメージの中でなにを形作ろうと、
そこに正解も不正解もあるはずがないですよねぇ。

それと一緒でストーリーに正解も誤りも無いんですよね。

ただ、正解も間違いもない!といった考えをね。
このストーリー上で掴む。
っていうことでもないんですよね。

正解も間違いもないんだから自由に生きよう!
っていうのは、それはそれで良いですし、
楽しそうなので、全然問題はないわけなんですけど、
これだと、単に一つのストーリーに過ぎないわけでして、
正解も間違いもない!という考え方もまた、正解でも間違いでもないわけなんです。

ややこしいですね。

ただ、ややこしそうに見えて実に単純なんです。
単にストーリーをストーリーだと見抜くだけなんですよね。

そして、見抜いたからってどうということはなく、
単にストーリーに対して、今まであったこだわりの必要性がなくなるだけなんです。

最初っから必要性なんてあったことすらなかったということを知るんですよねん。

これはストーリーがどうでも良いということという意味じゃないんですね。
ストーリーはあっていいし、起こってくることもあるでしょうし、
どうあろうとストーリーであることに変わりはないわけですし、、、。

どんなストーリーも同価値な訳でして、自由なんです。
そして、誰かがストーリーを作ってるわけでもなく、単にそれが起こってるだけ
といった感じです。

そしてストーリーへのこだわりの必要性が、深刻さを生じさせていて、
どげんかせんといけん!!!といった観念が、強迫観念となっていたりしてたんですよね。

その必要性が失われるので、深刻さも少なくなって来るわけです。

そして、どうということはないという事が単に明らかになるわけです。

どんなストーリーだって、同価値です。
そして、同価値というのは、全てに価値がないという意味で同価値なんです。

価値がないというのは、つまらないものと言うことじゃなく、
価値という判断なんて最初っからなかったと言うことの明らかさなんです。

価値という判断が失われた時、
こだわらなくてよかったんやーんという自由さが顔を出してくるわけです。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします